21世紀でいちばん良いニュース

父の勤める会社は実家から徒歩5分圏内にあったから、週末になると会社のひとたちが定期的に遊びにやって来た。麻雀をするためだ。

祖父も父も同じ会社だったから、その近くに家を建てた。ということだったと想像するのだけれど、父はまいにち水色っぽい作業着(もっと昔は灰色っぽかった気がする)を着て車で会社に行っていた。子どもだったころは「こんなに近いのにどうしてかな?」と思うこともあった。「歩いて行けばよくない?」と。もちろん、出社したあとでいろいろなところに車で出かけて行くこともあったはずだから、いまではそれはまったく不思議なことだったとは思わない。

家の前には2台分の駐車スペースがあった。いま、実家に帰ると、そこには車というものが存在しない。もうだれも運転できる者がいなくなったためである。さっぱりしたものだ。そこに車がないことが、ぼくにとっては父の不在を意味していた。だから父が亡くなって処分してしまってからは、いつでもずっとそこには車が存在せず、その空白がいちばん物語っている。父がもうこの世にはいないのだということを。

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たった一度だけ、出張帰りでめずらしく駅から歩いて帰ってくる、スーツ姿の父とすれ違ったことがあった。

それは水木公園の前の坂の途中だった。ぼくが中学生くらいの、ある日の夕方のことだ。坂の下の交差点にあった「すみや」というCD屋にでも行くところだったのかもしれない(知ってるひとには懐かしいはず!)。自転車を止めて、あるいは速度をゆるめて「おかえりなさい」とぼくは声をかけたと思う。そのとき父がなんて言ったのか、そもそもなにかを言ったのかどうかさえ、いまとなってはなんだか思い出せない。

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麻雀の日は、父の会社のひとたちがみんなお菓子やらジュースやらを買って来てくれたから、ぼくはそれをとても楽しみにしていた。その中に黄色いラベルの「メローイエロー」があったのをとてもよく覚えている。「メローイエロー」があると、とてもうれしかったという記憶がずっと刻まれていた。だから21世紀になって復刻したときに心を踊らせて飲んでみたのだけれど「こんな味だったっけな?」と「くるり」の歌の歌詞みたいに思ったのだった。

ともあれ、それはきっと70年代の終わりから、80年代なかばくらいまでにかけての期間だった。昔からたくさんのひとたちが集まる家だったように思う。ぼくは幼いころからいろいろなひとが家にいることにとても慣れていた。だからなのだろうか、小中高と、いつでも実家は溜まり場になっていて、ほんとうにいろいろなひとたちが遊びにやってきた。小・中学校のころは玄関に鍵がかかっていなかったから、みんな勝手に家に入ってきた。ぼくがいないときでも勝手に友だちが集まったりしていた。母としゃべるために来るやつだっていた。そういう場が必要だったのだろうと思う。

高校生くらいになってからは、一晩泊まって行くひとたちもたくさんいた。そのころは「駆け込み寺」と呼ばれていたのだった。みんなそれぞれいろいろとややこしい事情を抱えている時期だ。友だちはもちろんのこと、友だちの友だちや、友だちの友だちのお兄ちゃんとか、友だちの恋人とか、なんだかぼくにとってはぜんぜん知らないひとがやって来ることも多かった。かれらを連れてきた友だちは帰ってしまって、初対面のひととふたりきりで向き合うこともしばしばだった。かれらが眠たくなるまでぼくはいっしょの部屋にいて、いまではもうまったく覚えていないようないろいろな話をし、ひとしきりの時間を過ごすと「おやすみ」と言ってぼくはじぶんの部屋に引き上げた。そして朝になるとかれらを起こして玄関の外へと「それじゃあまたね」と言って見送り、それからもう2度と会うことはないのだった。

みんな元気かなあ。

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あのころのサラリーマンは(というかぼくはサラリーマンのことをぜんぜん知らないし、もはやサラリーマンというような大雑把なくくりで一般化できる気がしないけれど)、定時が16時半くらいで、信じがたいことに、なにもなければほんとうにそのくらいの時間に帰宅するのが常だった。大相撲中継に間に合っていたんじゃなかったかと思う。19時を過ぎたりすると「残業で遅いね」という感じで、それに比べて現在の日本はいったいどれだけ厳しくなったんだと思うが、それはまたべつの話である(と書いたけど、こないだ17時くらいの電車に乗ったらとても混んでいて、それくらいの時間に帰れるひとたちもまだまだいるのだということをはじめて知った……)。

そう、定時で仕事を終えて麻雀をしにやって来たサラリーマンたちは、夕食をまだ食べていなかった。だから麻雀の日は出前をたのむことになっていた。店はいつも決まっていた。「万福」という手打ち中華そば屋である。

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「好きな食べものはなんですか?」あるいは「人生の最後に食べたいものは?」と聞かれたら、ぼくはもう死ぬまでこの一択のままだ。それが「万福」の「肉入焼きそば」である。小さいころから大好きで、出前のたびにぼくはこれを食べていたのだった(成長期には大盛り+100円)。その後の人生において、ぼくはおいしいものだっていろいろ食べてきたと思う。それでもここまで長年にわたっていつまでも心に残り続ける、類まれな料理は、ほかには見つからない。はじめて食べたのは、おそらく30年以上前のことだ。

不揃いで幅広の、独特な手打ち麺はねっとりしたような歯ざわりだ。提供された瞬間からもう麺たちはくっつきはじめていて、食べにくいといえば食べにくい。いちにち置いたやつをレンジで温めて食べたことだってあるけれど、箸で一気にぜんぶ持ち上がる感じだ。けれども、このような焼きそばは食べたことがない。どこかにあるなら教えてほしいくらいだ。いったいどうやって作っているのだろう?

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このあいだ、数年ぶりに「肉入焼きそば」を食べることができた。母と弟といっしょに店を訪れたのだった。親父さんとも少しお話して、「小さいころからこの焼きそばが好きだったんです」とお伝えすることができた。「お兄ちゃんはよく運んでくれたね」と親父さんは覚えていてくれた。麻雀の日、ぼくは玄関から中華丼やら、もやしそばやら、なんやらをみんなに運ぶ係だったからだ。

そのとき、ぼくはひどい宿酔だった。いつものことだ。前日の夜に弟と「万福」に行く約束をしたことも覚えていないくらいだった。このあいだ入籍した妹の旦那さん(あたらしい弟!)の家族との初顔合わせで、昼過ぎからずっとぼくは飲みつづけていた。あまりにもおめでたいことだから、舞い上がってとくべつに飲みすぎてしまったのだ。

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大好きな「肉入焼きそば」を食べている途中で吐いてしまう寸前だった。なんということだろう。深刻な事態だ。けっこうな油の量だし、肉質はどうやって仕入れているのかふしぎなくらいに選び抜かれた脂身の多い部分だ。ここで残したり、途中でトイレに行ったりすることはひととして許されない、とぼくは思った。これまでの人生で経験してきたすべてのひどい宿酔を思い起こした。うーん。われながら最悪だ。でも。それよりはよほどだいじょうぶ。気持ち悪さを母と弟に悟られないように、優雅にゆっくりと無事に完食した。ほんとうによかったし、おいしかったし、今度は宿酔じゃないときに食べたいし、実家に帰るたびに食べたい。そしてそのためになるべく実家に帰るようにしたい。跡継ぎのいないその店で、親父さんはあと何年続けられるか……とおしゃっていたからだ。

これを書いているいま、また死ぬほど食べたくなっている。

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