1945年と2015年の夏

2018年4月5日、高畑勲監督が亡くなりました。享年82。

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1976年生まれのぼくは、『風の谷のナウシカ』と『天空の城ラピュタ』を小学生のときにみた。そのことは、人生を左右するようなとてつもなく大きなことだったとおもう。

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当時、劇場でみたという記憶はないから、テレビで放映されたものをみたはずだ。小学校の校庭にあった「トンネル山」という遊具のてっぺんにすわって、空に浮かぶ大きな雲を指差して「竜の巣だー!」と友だちと叫んだりしたという記憶がある。平井くんと熊谷くん。いわば、ぼくたちの世代は「スタジオジブリ」の隆盛と、宮﨑駿というアニメーターが国民的な存在になってゆくのを、そのはじめから、そして終わりまで見守ってきたのだといっていい。

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1989年、ぼくははじめて劇場にジブリの映画を観に行った。『魔女の宅急便』である。でもそのころ、ぼんやりとした中学生だったぼくは、いまだ「ジブリ」という存在をとくべつに意識しているわけではなかった。つぎに劇場でみたジブリ映画は1997年の『もののけ姫』である。そのとき、ジブリはもう完全にジブリだった。2001年の『千と千尋の神隠し』、2004年の『ハウルの動く城』、2008年の『崖の上のポニョ』、2010年の『借りぐらしのアリエッティ』、2011年の『コクリコ坂から』、2013年の『風立ちぬ』、『かぐや姫の物語』、そして2014年の『思い出のマーニー』と、ぼくは劇場でジブリの映画のほとんどをみてきた。

しかしなにかが抜け落ちている。それはおおかたの高畑監督作品だった。

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高畑監督が亡くなって、ぼくは録画してある高畑監督の作品をすべてみることにした。『パンダコパンダ』、『赤毛のアン』、『おもひでぽろぽろ』、『かぐや姫の物語』。ただ、どうしても『火垂るの墓』をみる気にはなれなかった。それは、3年前の夏、ぼくは12回も『火垂るの墓』をみたからだった。以下はそのときに書いた文章である。どういうわけか、お蔵入りにしてしまっていたのだった。それを公開することにしたい。

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2015年の夏のこと。

いつまでもぐずぐずと風邪がぬけきらず、「食パン」と「うどん」の小麦だらけのほぼ2択。で暮らしていたら、なにもかも、決めることが途轍もなく億劫になっていったのでした。

いいえ。

そもそもそのような状態におちいったこと自体、もうすでに結果=症状なのであって、決められないからこそおのずと選択肢が2つに絞られていった、ということなのかもしれない。とはいえ、食パンはどこでどのメーカーのものを購入するのか。コンビニなのかスーパーなのかパン屋なのか。山崎「芳醇」なのか「ロイヤルブレッド」なのか「ダブルソフト」なのか「ふんわり」なのか、フジパン「本仕込」なのか、セブンゴールド「金の食パン」なのか、パスコ「超熟」なのか。6枚切りなのか8枚切りなのか、それとも5枚切りなのか。トーストするのかしないのか。なにを塗り、なにをのせるのか。トランス脂肪酸が気になるからマーガリンではなくバターにするとして、有塩なのか無塩なのか。雪印なのか森永なのかよつ葉なのかカルピスなのか。いっしょに飲むものはコーンスープなのか、クノールなのかポッカなのか。それともコーヒーなのか。いつのまに「ポッカサッポロ」になったのか。たまには味噌汁でもいいのか。ハムを食べると癌になるらしい。ということについて、どれくらい心配すればいいのか。シーチキンに切り替えたほうがいいのか。だとしたらマグロなのかカツオなのか。スライスチーズはとろける、とろけないでチーズの種類と配合がちがうらしい。どちらがいいのか。とにかくチーズをいちばんうえに乗せてトーストするとかならず口内の上顎のとこをやけどするんだけど、どうすればいいのか。

まだ見ぬ、

なにかしら、

食パンにのっけるとおいしい身近な食材には、

たとえばどういったものがあるのか。

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「食パン」とひとことで言ってもこれこの通り、むげんの組み合わせと取り合わせ。そういったことのすべてをひとびとは瞬時に決定し、つぎつぎとレジに並んではお会計を済ませてゆくわけです。みんなエスパーかよ。羨望の眼差しでぼくは立ち尽くします。スーパーマーケットのレジの前で。こういう状態になると、もはや危険信号。「かつや」の年末感謝祭500円均一セールで「カツ丼」にするべきか「ロースカツ定食」にするべきか「カツカレー」にするべきか「ソースカツ丼」にするべきか、それが問題だ。というわけで小一時間ほどハムレットのように熟考してから店へとおもむき、いざ注文。という場面になったら決めていったのとはべつのものを頼んでしまうという始末。もはや優柔不断の烙印が、おでこに浮かび上がりそう。まるで外国人がデザインだけで選んだ漢字のタトゥーのように。コンシーラーを買いに行かなくちゃ。どこのブランドのがいいのかな……(以下略)。

もうぼくは尼寺へでも行くべきなのだ。きっと。……まずは性転換しないと。どこの整形美容外科がいいかな…。

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東京中の賃貸住宅をインターネットで5時間さがしつづけても1部屋も住みたい部屋がみつからない朝、希望する路線図がじわじわ街の発展とおなじように延びて、つぎつぎと轍をつくり、やがて海にぶつかり、埋め立てをはじめ、高度経済成長期の都市の同心円的な拡大を追体験したような、街中でいる場所なんてどこにもないような気もちになりつつ、羽田へ向けてぼくの希望が不安げな面持ちでモノレールに乗りはじめるころ、ちょうど2週間前とおなじ側の喉(喉のおなじ側?)がまた痛くなって、喉がタイムリープして来たのかとおもった。喉だけが。2週間前から。CTスキャンみたいな輪切りで。あるいは、喉の痛みの幽霊が喉に住み着いているのかもしれなかった。地縛霊かな。きっとこれは身体が治るか治らないかを決められない状態なんだとぼくはおもった。

というここまでの文章は、なんだか歯切れの悪い、遠回しでもったいぶったいいわけだ。

これから書くことは、なにしろもう5ヶ月も前のこと。じつはそれ以外にも11月のことや、9月のこと、もっともっと前のことを書いたブログ用の文章がEvernoteにずんずん溜まっていて、それは内容の性質上、書いてすぐに出さなければならなかったものなのだ。まるで遅刻をしてきてその理由を説明することでまた相手の時間を奪ってしまう、というような種類の愚かしさ。「なにをいまさらなんだよ!」という碇シンジくんの印象的な叫びにも似た自己批判をどうにか跳ね返すための、これは助走とかんがえてもらえればうれしいのです。

つまり要するに2択くらいしか選ぶ能力がないのに、まとまった文章を完成させられるはずがないよ……しかたがないよ……。という、苦しまぎれのいいわけなのでした……。

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文章を書くことは、お釣りが出ないように小銭でお会計をするのとはわけがちがいます。23円玉とか4.7円札とか0.1×10の12乗ウォンとか100兆ジンバブエ・ドルとか古代中国のタカラガイとかシュメール語でギンと呼ばれた銀とか、ことばの財布のなかはそういうむげんの組み合わせだ。だからといって、めんどくさい!もう1万円札でぜんぶ買っちゃえ長嶋茂雄みたいに缶ジュースも。お釣りはぜんぶ角盈男にあげちゃう、というのを一日に4回繰り返す、みたいな都市伝説。そんなふうになってしまったらもうほんとうにだめで、なにひとつ決められなくなってゆく。というか決めることに意味がなくなってゆく。永久に不滅になってゆく。

そう、そしてこうした優柔不断のぐずぐずの果てに、ちょうどこのいいわけ部分を書いているときに、助走の最中に、罰が当たったみたいに、この文章をどうしてもアップしなければいけない理由が向こうからやって来てしまった。現実に背中を押されてしまった。

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ぼくはもう喉が痛いまま生きていこう。

声にならなくても。想いがときには伝わらなくても。

とにかく、まずは8月のことだ。

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(この文章は、特に、野坂昭如氏に捧げられる)

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少しだけ気合いの入ったまばたきなら、丸ごと見落としてしまったかもしれない。過ぎてしまえばあまりにも短く、バトンを受け取ったとおもったら3歩目にはもう次の走者に渡さなければならない。そんな慌ただしいリレーのようだった2015年の、夢かまぼろしのように儚かった夏のこと。8月17日の早朝。録画しておいた『火垂るの墓』をぼくはみた。

ぼくは泣かなかった。いや、ほんとうは泣いたのかもしれない。ぼくが真実のみを書いているという保証はどこにもない。「儚かった」と「泣かなかった」で、韻を踏みたかっただけなのかもしれない。

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その一週間、「戦後70年」ということで例年以上にたくさんの【戦争】に関する番組が放送されていた。ぼくは片っ端から録画してそれらをみた。無我夢中で、一心不乱に。没頭して。集中して。熱中して。

NHKの『カラーでみる太平洋戦争』とかすごかった。最新のデジタル技術によって彩色された、さまざまな種類の【戦争】に関するモノクロフィルムたち。カラー化された途端、それらはこの現実とつながっているという印象がウナギのぼりで一気に増大するのだった。ウナギのエネルギー、すなわちウナジ―によって。そして実際、それはつながっているし、つながっていたし、つながっていくわけなのだ。にょろにょろ、にゅるにゅると。テクニョロジーによって。文字通りの地続きな場所として。そこに、その場所に、ぼくの祖母がもし存在していたのだったとしたって、まったくふしぎなことではなかったのだ、とぼくはおもった。

白黒の世界のことは、なんとなく、自然に切り離してしまっていた。ということが、カラーになったことではっきりとわかってしまった。単純な形式のちがいによって、簡単にフォルダ分けしてしまっていたのだ。別々のフォルダに仕舞ってしまっていた。たとえば、「白黒」と「カラー」といった具合に。1945年「以前」と「以後」といった具合に。だけれど、それらは、ともにひとつ上位のフォルダのうちに、いっしょに収まっていたのだ。すべての事象はなんらかの上位フォルダのうちにあり、だれにもルートディレクトリがなにで、どこにあるのかがわからないということなのだ。そういうことが、極めて明確に、はっきりと、同語反復を犯しながら、端なくも判明してしまったのだった。

大変な状況なのにもかかわらず、なんだかけっこう派手な色の着物を着ている子どもたちの姿。そのあまりにも場違いな感じ、状況にそぐわない感じが、日本的ホラーの源泉のようだった。砂場から唐突にひな人形が出てくるみたいな、井戸の底から鯉のぼりが出てきたみたいな。もしかしたら子どもの着物というのは当時、大概、そういうカラフルな種類のものだったのかもしれないのだけれど、それは、白黒のときには決してわからなかったことのひとつだ。あの空襲で灰になった街とのコントラストを忘れることができそうにない。

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『火垂るの墓』も、その「戦争一色の日々」にみた。ひさしぶりにちゃんとみなおしてみるか、というような心持ちで。『火垂るの墓』が白黒ではなくカラーのアニメ作品であること。というのは、どれくらいこの物語にリアリティを与えているだろうか。などといったことをかんがえたりもしながら。つまり、この時代の映像は、長いあいだ、現実にのこっているものとしてはカラーではありえなかった。そういう意味では『火垂るの墓』は『カラーでみる太平洋戦争』を先駆けていた。アニメーションの力によって。でも。それにしても。

すぐに「あれ?」とぼくはおもったのだった。「この映画、みたことないな」と。

……え?

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じぶんでは、はっきりと何度もみていたようなつもりでこれまでの人生を過ごしてきた。ジブリまっただ中のぼくたちの世代だ、『火垂るの墓』をみていない人間が果たしてどれくらい存在するだろうか?そんなのほとんど非国民の誹りを免れない感じだ。「節子、それ◯◯やない、◯◯や」という有名なコピペだってぼくは知っている(実際の台詞はずいぶん違うのだけれど)。なのに肝心の作品自体をみていないかもだって?なんということだろうか!

結局、どうしてもはっきりとはおもいだせなかった。ほんとうに、いままでにいちども、ぼくは『火垂るの墓』をみていなかったとでもいうのだろうか?にわかには信じがたい。でも、率直にいって、実感としては、初めてみるような気もしたし、みたことがあるような気もするが、みたこと自体を忘れようとしてきたのかもしれない、というような感じもした。有名な映画だし、有名な細部がありすぎるため、みていないのに、みているような気がしていた、という可能性だって十分にある。あるいは、ちゃんとみたことはあったけれど、まだ小さかったし怖かったからもう忘れちゃおう、ということで、ぼくのまだ未熟な幼い脳のなかで、そのように(忘れる方向で)処理がなされた、ということだったのかもしれない。

「マジかよ!」とぼくはおもう。ほんとうにびっくりだ。

いずれにせよ、だ。

この映画がどのような物語なのか、ということを、これまでにいちどもぼくはちゃんとかんがえたことがない。ということは確かなことだ。戦争ってやだな。マジ勘弁。怖い。ウジ虫きつい。節子かわいそう。というようなこと以外には、ちゃんとかんがえてこなかった。そのことだけは確かなことだ。

というわけで、あらためて2015年に、この映画を(おそらく初めて)みた感想を書いてみたいのだ。

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まず気になったのは、「この奇妙な設定はいったいどういうことだろう?」である。

映画の冒頭はどうなっているだろうか。

「昭和20年9月21日夜、ぼくは死んだ」という関西弁のモノローグでこの映画ははじまる。語り手は14才の少年「清太」だ。

駅構内のような場所の柱に背をもたせかけて、じぶん自身がうずくまっているのを、モノローグの語り手である「清太」はみている。つまり、死ぬ間際のじぶんの姿を、死んだあとのじぶんが眺めているというわけである。

つまり、この物語は、死んだ人間、いわば幽霊による回想だ。「清太」が清太の経験を追体験する物語。

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清太のそばを通り過ぎるひとたちが、かれの姿をみて、つぎのようなことをいっている。

「アメリカ軍がもうすぐ来るちゅうのに、恥やでえ。駅にこんなんおったら」

この台詞の恐ろしさといったらない(すごく怖くて、すごく本質的)。

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駅員は、清太と同じようにうずくまっているひとたちをデッキブラシでつつきまわって、「まだかー」「もうそろそろやな」などとつぶやいている。簡単にいえば駅員はかれらが死ぬのを待っており、つまりは見殺しにしているというわけだ。死なないと、なにかしらの処置ができないという立場なのだろうとおもうけれど、はっきりいって、いま現在の倫理に照らし合わせてみると、あきらかに常軌を逸しているようにすら感じられる。ということを踏まえて、戦後の日本のぼくたちの今の感覚というものが、人道主義的な価値観の植え付けの達成なのだ、とある種のひとたちは唱えたいかもしれない。

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駅員が清太の懐から、あの有名な「サクマ式ドロップス」の缶を取り出す。「なんやこれ」みたいな感じで。駅員は缶を振って、なかになにかが入っていることを確認する。そして缶のふたを取ろうとする。そのせいで指をちょっと怪我したみたいだ。結局、ふたを開けられないまま、つぎのカットで駅員は缶を駅舎の外へ、けっこうちゃんとしたフォームで振りかぶって放り投げる。それは一度バウンドしてから草むらに落下して、その衝撃でふたが外れ、なかに入っていたものが外に出てくる。ちいさな白い骨だ。すると、まるでそれを待ちかまえていたかのように蛍の光がむすうに舞い上がり、骨の持ち主(本体?)である節子がどこからともなく現れる。防災頭巾をかぶって。節子が駅構内の、いま死んだばかりの兄の姿をみつめるカット。兄の元へといまにも駆け出しそうな節子の幽霊のその肩に手をかけるのは、モノローグの語り手の、幽霊の「清太」だ。「清太」が泥まみれ、あるいは錆まみれの「サクマ式ドロップス」の缶を拾い上げると、それはたちまち新品になり、中身もドロップで満たされる。そしてふたりは手を取り合って、さらなる過去へと時間を遡ってゆくのである。蛍の光に導かれるようにして。そして浮かび上がるタイトル。ややもすると『大改造!!劇的ビフォーアフター』のメインテーマと聞き間違えてしまいそうなテーマ曲。

ぼくたち兄妹は死んだ。では、どうして死んだのか?

これがこの映画のテーマだ。いってみれば、ぼくたちを殺した犯人がだれなのかを、みんなでかんがえてほしい。というミステリーのような構造になっているとぼくはおもった。つまり、なぜ清太と節子は死ぬことになったのかを、観客にかんがえさせるためにつくられている物語だということになる。いったいだれが、あるいは、なにが、この幼い兄と妹を死へと追いやったのだとおもいますか?というわけだ。

だから、「これは反戦映画ではない」と、どこかで高畑勲監督は述べている。

【戦争】が幼い兄妹を殺した。だから【戦争】はよくない、ということじゃない。この映画はそう語っているように、ぼくにはおもえる。なにか、もっとほかのなにかが、清太と節子を殺すことになったのだ、と。【戦争】はその隠れ蓑にすぎないのだ、と。

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近年、節子の死因がネット上で取り沙汰されていたのをご存知だろうか。節子が死んだのは、一般的には栄養失調のためだとかんがえられてきたが、じつはそうではなかったというのである。栄養失調説では、清太のエゴによって節子が死ぬことになったのだ、だから清太が悪い。清太のばか。ということになりがちであった。つまり清太のいくつもの独断的な判断によって、結果的に節子は死ぬことになったのだから、その唯一の保護者といってもよい兄の清太にその責任があるのではないか、という「清太クズ説」だ。しかし。

空襲のあとに雨が降ってくる場面。

清太は「これが空襲の後で降るいうやつか」といって、そのとき兄妹は同時に空を見上げる。ここで清太が庇のある学帽をかぶっているのに対し、節子がかぶっているのは防災ずきんであり、降ってくる雨が直接、節子の左目に入ったかのような様子が描かれている。そのあと節子は「目痛いねん」といっていて、避難場所の学校で衛生兵に目を洗ってもらっている。

清太と節子が雨に降られた場所は特定されている。その風上には軍需工場があった。清太と節子が空を見上げたときに降ってきた雨は、軍需工場が空襲で破壊され、有害物質を含んだ黒煙が舞い上がるなか降ってきた雨だったのかもしれないのだ。

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ぼくは2015年の夏、はじめて『火垂るの墓』をみて、きょうまでにぜんぶで12回みたのだった。そして12月9日、野坂昭如は死んでしまった。清太が死んだ9月21日を線対称にしたような日に。清太が『火垂るの墓』で、いつまでもくりかえし復興した日本の街並みを高台から眺めているように、野坂昭如というひとは、ずっと戦後の日本を少し離れたところから静かに眺めてきたひとのようにぼくは感じる。大島渚にみごとな右フックを浴びせ、マイクでぶん殴られる。という接近戦をみせたことはあったけれど。1990年のことだ。あれは何度みてもおもしろいですよね。

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小さくて弱いものが声も上げずに死んでゆく。というとき、きっと、ほとんど、ぼくたちにはどうすることもできない。助けるという行為自体も許されていないような感じだ。

多くの場合、それはただ単に、聞こえないだろう。ほんとうのほんとうはできることだっていろいろとあるかもしれないし、そのなかにはとても簡単なことだってあるかもしれない。でもそうしない。それはなぜか?

それは、ひとは、じぶんの行動原理を他人に委ねているからだ。というのが、『火垂るの墓』で描かれていたことだとぼくはおもう。

あの、冒頭の駅員のことを思い浮かべていただきたい。

かれは清太を助けることもできたはずだが、そうしない。なぜか。それはじぶんの仕事ではない、とかれがなんのかんがえもなしにかんがえているからだ。

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清太は死ぬ間際に、「いま何日やろう」とつぶやいている。アメリカ軍がやって来たのは、9月25日だ。もし、そこまで清太が生きていたら、アメリカは清太の命を救っただろうか。

どこかで、小さくて弱いものが、声を上げないでいる。その理由は、きっとさまざまだ。大きなものの、しわ寄せなのかもしれないし、なんかもうどうしようもなくこんがらがった理由によるのかもしれない。それを見過ごしたり、見落としたり、見なかったことにしたりしてはいけない。というのが、ぼくがこの映画から受け取った教訓のようなものである。ことばでいうのはほんとうに簡単だ。かんたんすぎて、話にならない。でも、なんというか、そういうことなのだ。できるかどうか、自信がないのだけれど。

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目を閉じると浮かび上がるのは、節子のちょこまかとした可愛らしい動きだ。きっと、ひと夏のシャッタースピードなら、アニメーションというものは、なんという弔いの方法なのだろうか。命を吹き込んだあとで、それを奪い去る。

かの女が、かつて、そこに存在したこと。固有の時間が、たしかに流れていたこと。その空間と時間を、ぼくたちでもういちど過ごすこと。

蚊帳のなかをひとばん照らしてくれた蛍たちの、おびただしい数の死骸を埋めたお墓。それを節子がつくったように、ぼくはまぶたの奥にひっそりとあのふたりが暮らした洞窟のような場所に、かれらを住まわせてあげたいとおもうのだ。