夏の終わりの断片的なつぶやき(主にアウトテイク)

●朝起きたときにお腹が空いているとがっかりする。なんのために夜ごはんをたべたのか、とおもう。でもだいたいお腹が空いている。

●だから「どうせまたあした起きたらお腹が空くんだからたべなくていいや」という感じでなにもたべないで寝てしまうことが多くなってきたのだけれど、これはおばあちゃんが死ぬ少し前に「年をとると、なにかちょっと欲しいな。っておもうものがあっても、どうせ先も長くないんだし。っておもって買うのをやめちゃうの」と言っていたのと似ているとおもった。

●だからこれは老いの現象で、人間の老いというのは、リアルタイムで生じた気もちの占める割合と重要度がどんどん減ってゆくことなのではないかとおもう。

●さまざまな場面で、心のなかでおもっていることと発言を一致させなければいけない、つまり嘘をついちゃいけない、ダブスタ禁止。みたいな風潮になってきているが(憲法9条改正とかもそのひとつかもしれない)、人間のコミュニケーションはそんなLINEのスタンプみたいなものではないのではないか。

●ある感情を表出するときに、大人はどこかからその感情の正当性を調達しないといけないことになっているので(急に泣いたり、怒ったりしたら変におもわれるみたいなこと)、芸能人や政治家のスキャンダルがその供給源化している、ということのような気がしている。それについては手放しに怒ってよい、というものを毎週のように文春砲は用意している。だから、非政治的なスキャンダルで失脚したかにみえる政治家も、思わぬ形で民意を代表しているのだといえる。政治的イシューではなく、感情的イシューを代表する政治家。

●今年、高校野球をみていて、高校野球というのはプロ野球に比べて夏の甲子園(暑い、風つよい)という環境と、金属バット(よく飛ぶ、低コスト)という道具と、むろん年齢的な若さという条件によって、運が占める要素が高く設定されており、それは実力主義的になりすぎないための教育的配慮なのかもしれないが(負けたときの逃げ道をつくる、みたいな)、「高校野球はドラマチック」の内実は、そういったバランスの違いによるものだとおもった。

●したがって、1試合に1回だけ「金のひとしくん人形」みたいな感じで金属バットを使える、みたいにすると、プロ野球のギャンブル度が上がるだろう。

●ぼくは基本的にじぶん以外の人間はみんな死ね、とみんながおもっているという前提で暮らしていて、社会とはその上でつくられるものだとおもうので、ヘイトスピーチの意味がわからない。そんな素朴なあたりまえのことをなぜわざわざ言うのか。

●それでも全方位的なバトルロイヤル状態はしんどいので、同心円的に家族、社会、国家みたいな感じで段階的・便宜的なメンバーシップ制になっているが、そんなものは幼稚園のたんぽぽ組とかれんげ組とかみたいなもので、日本人だとか出身地だとか血筋だとかジェンダーだとかそんな抽象的で証明するのがむずかしいもので知らないひとと連帯したりそこにアイデンティティを見出す。というのは単純すぎるし危険すぎるとおもう。敵認定している向こうも同じようにそうしているのだから。

●東浩紀の「観光客」という概念は、グローバリズムが全世界に用意するにいたった消費社会主義的なインフラにもとづいた、気づかないうちに似たような体験(旅)をしている21世紀のぼくたちの連帯の可能性を示唆したもので、ハワイめっちゃいいよね!とか、イケア最高とか、Amazonでみんな買いものするよね、みたいな連帯ともいえないような連帯があらゆるイデオロギーを超えて世界市民的意識を育てる。ってことがルソーの一般意思の実現そのものなんじゃね?みたいなことだと勝手に理解しているんだけど、世界はそうなるべきだとおもうが、ぼくはネットでなにも買わないし、グローバル企業は大嫌いである。ハワイも。いったことないけど。

●お金がないと、お金のことについてかんがえる時間が増える。健康なときはじぶんの身体についてかんがえないのと同じだ。