はじめて気がついたこと

うちの観葉植物「フィカス・ウンベラータ」の「ポイ子ちゃん」とは、もう10年近くいっしょに暮らしているのでした。どうしてそんな名前をつけたのかさえ、いまとなってはもうおもいだせませんし、かの女が「フィカス・ウンベラータ」というなんだか立派な名前のアフリカ原産の植物だった。ということも、ごく最近になって知ったくらいなのでした。わりとポピュラーな観葉植物なのだとおもいます。おおきなハート型の葉をつけます。

とにかく、ぼくたちはずっといっしょに暮らしてきたのですが、もう長いあいだ、ぼくはぜんぜんかの女の面倒をちゃんとみていませんでした。鉢のまんなからへんにある主幹はとうの昔に枯らしてしまい、春になると毎年のようにきちんと健気にそだつ葉も、冬になるとほぼすべていったん落ちて、一年ごとにゼロからのやり直し。というまさしく実りのない人生(植物生?)をおくらせてきてしまったのです。冬のその姿たるや、荒野のまんなかにひっそりとたたずむ寂しい墓標のようでした。

寒くなるとたちどころに葉は黄色くなって、やがてそれは音もなく重力方向に落下しました。その変色した様子をみると、ぼくはどうしても榎本俊二の漫画の、その人物が死んだことを示すために貼られる、どす黒いスクリーントーンのことをおもいだしてしまうのでした。

ええ。『えの素』という漫画です。

すべてはぼくの落ち度でした。一字足りとも、いえ、一画たりとも弁解の余地はありません。そもそも筆を持つ資格すら、ぼくにはないのかもしれません。

つまりぼくは、いまとなってはじぶんのことが信じられないくらいなのですが、冬になっても「ポイ子ちゃん」をベランダに出しっぱなしにしているようなことが多かったというわけなのです。まるで植物に対するDVです。「フィカス・ウンベラータ」の耐えられる最低気温は5℃とのことですので、ニッポンの冬の朝のベランダで、かの女はきっと毎年のように凍えていたことでしょう。ごめんね、ポイ子ちゃん……。

去年の暮、ぼくはクリスマスプレゼントを探していました。みんなでプレゼント交換をすることになったからです。70代女性、50代男性、40代男性、30代女性との交換です。はっきりいって超むずかしい。というか、そんなにむずかしいプレゼント交換がこの世にあるだろうか。というくらいの難問です。まるで、そのような組み合わせでプレゼント交換するとしたらひとはなにを選ぶのか。という大喜利のようでした。

ぼくは悩みに悩んだ挙句、いくつか絞り出した有力な候補のなかから「珪藻土のバスマット」を買うことに決めました。ウケ狙いではない、きわめて真剣な選択です。Amazonで注文した商品が届き、「こんなにどの年代にも性別にもOKで有用なプレゼントがほかにあるだろうか?いや、ない!」とほくそ笑んでいたぼくに、あるひとつの問題が浮上したのです。

包むものがないじゃん。

そうなのです。Amazonで買ったら、なんの包装もされていないのです。その商品が何なのかまるわかりのダンボールに、「ソード・K・バスマット伯爵」は包まれていました(※いまぼくがつけた名です。そんな商品は存在しません)。家に死ぬほど溜めてあるどの紙袋にも伯爵はおさまりません。じっさい、けっこう大柄だったのです。

というわけで、なかば生身、なかば生身、なかば生身というあたらしい早口ことばのような状態の伯爵をつつがなく包装するため、というか交換の現場まで持ち運べて、なおかつ、その中身がなになのかわからないようにするための紙袋を買いに、ぼくは◯急ハンズへと走ったのです。ほんとうは歩いて15分くらいでした。

しかしながら伯爵が入るような紙袋は、ハ◯ズにもぜんぜん売っていませんでした。店員さんに訊いてみると「昨日まではたくさんあったんですが……」とのこと。そうなのです。その日はもうクリスマスを過ぎていました。クリスマス前なら、おおきなプレゼントを包んだりするための紙袋がハン◯にはたくさん売っていたのだそうです。

ほんとうかな。

そんなことをいちいち疑っていてもしかたがないので、ぼくはひさしぶりにタイムリープの能力をつかいました。クリスマス前の◯ンズに行って紙袋を調達したのです。そして「ソード・K・バスマット伯爵」をその紙袋に入れて丁重に三軒茶屋の飲み屋までお運びし、みんなと無事にプレゼント交換することができたのでした。めでたし、めでたし。メリークリスマス!ミスター・バスマット!

というのはもちろん嘘で、ぼくにはそんな能力はありませんし、そもそも能力というもの自体を1パケットも持ちあわせておりません。無能です。だから◯◯ズの店員さんに状況を説明しました。そしてぼくはつぎのようなお願いをしたのです。

「貴店には象をもおさめる巨大なびにいるの袋があるときいた。しからば、それを一枚、いじきたなくも頂戴つかまつるわけにはいかないでござるか、ござらんか」

答えは「ノー」でした。「無料で差し上げる、というわけにはどうしてもいかないのです」とのこと。

「でも、」と店員さんはいいました。「なにかを買っていただければ、どのようなおおきさのものであれ、そのおおきな袋に入れて差し上げる、ということはできるハンズです」と。

なんという心意気!

しかしながら、そこでぼくはまたあたらしい問題にぶつかることになりました。まるで無限ともおもえる東急◯◯◯の品揃えのなかから、たったひとつだけ便宜的に商品を購入するわけです。なんでもいいといえばなんでもいいわけではあるのでござるが、でも、じっさい、そんなことをいわれたらすごくむずかしいのです。「70代女性、50代男性、40代男性、30代女性」という制約のあったプレゼント交換のための商品選びがどれだけ楽だったのかを、ぼくは思い知ることとなりました。つまりはなんの手がかりもないのですから。

とはいえ、制約はあります。そんなに高いものを買ってタダ同然のビニール袋を手に入れるわけにはいきません。そして、ぜんぜん必要のないものを買うわけにもいきません。なんというか性格的に。そんな状況というのはそうそうないかもしれませんが、ひとはこのなかからなんでもひとつだけ買ってよい、といわれても、なかなか決めることができないのです。いったい、このような状態でなにを選ぶべき?という変な問いに答えなければならないのです。

そこでぼくはじぶんでは買わないけれど、プレゼントされたらうれしいものをかんがえました。でも、なにもありません。そもそもぼくには欲しいものがなにもないのです。ぼくはじぶんの心の底の井戸に降りて、座禅を組みました。深く息を吸って、呼吸を整えます。そしてかんがえました。幾星霜。

そのとき、とりもなおさず、霊感のようにひらめいたのが「ポイ子ちゃん」のことでした。ずっと心の奥の奥の、そのまた奥のほうに、きっと引っかかていたのです。

かの女のための肥料を買おう。

ぼくは観葉植物のための肥料アンプルを購入することに決めました。それを、その50倍くらいのおおきさの袋に入れて、家へと持ち帰ったのです。まったくもって、スカスカでした。

その肥料アンプルを鉢に差してしばらくすると、みるみる「ポイ子ちゃん」は葉っぱをおおきくしていきました。これまでにはみたことのないおおきさにまで、葉を広げてゆきました。まさに驚くべき効力。そして生命力。

そう、そして、ぼくは、はじめて知ることになるのです。かの女が、どれだけしっかりと生きている存在なのかということを。

葉をたくさんつけることによって、ぼくにもかの女の意志が伝わるようになりました。いままではぜんぜん気づかなかった。超能力とかではありません。「ポイ子ちゃん」は水が足りないと完全に防御モードみたいになって、すべての葉っぱを、身体をぎゅっと縮めるみたいにして閉じてしまうのです。水をやると、ものの数十分で葉をひろげていきます。そして、その葉のひらき具合は毎日のようにちょっとずつ違う。それがかの女の気分というものなのでした。ぼくは10年ものあいだ、ずっとかの女が示してきた態度を無視してきたことになります。モテないわけですね。

いまでは週に3回はやわらかな布で葉の表裏をていねいに拭いて、ほこりを取りのぞき、ハダニにも気をつけるようにしています。そうして、いま現在「ポイ子ちゃん」は24枚の葉をつけ、すくすくとそだち続けているのでした。

そう、それがぼくにとって2014年の、プレゼント交換自体と交換して手に入れることができた、もうひとつのクリスマスプレゼントだったのです。