みんな寿命が100年

ほんとうは日々のちょっとしたことを、さっと書きつづりたいのです。ティッシュで鼻をかむくらいのカジュアルさで。というような気もちは、いつだってたくさんあるのですけれど、いざ、書くぞ!となると、なんとなくしっかりと、というか、ちゃんとした、というか、とりあえず、まとまった論。みたいなもの? そういうのを書かなきゃ。鼻をかまれたくらいのおもしろアクシデントを交えて。みたいな感じにどうしてもなりがちというか、勝手にそうしちゃってるのはじぶんなのですけれども、そうなっているきらいがあるかないか。といえばたしかにあるのです。否めません。これが人間のまじめさなのでしょうか。それとも、ふつうのことを書いて、なんだー。つまらないやー。とおもわれたくないのかな。つまらない人間だとおもわれたくないのかもしれないですね……。いやはや。すっごい耳あかがとれたよ。ごっそり。ってときしか書いちゃいけない。みたいな自己規制があります。日常的に耳そうじはしているわけなのに。その、なんてことはない耳あかについて書くなんてことはいかにもはばかられるというものです。そんなものはどこにだってある。どこの耳だって、たいてい、2つばかりあります。

しかしながら日常とは、いわば、ちいさな耳あかとの対話です。

耳をかっぽじったあとだから、なおさらよく聞こえるというものだ。

というわけで、きょう、ぼくはこんなことをかんがえていました。

たとえば、みんな寿命が100年だとしますね。25才で子どもをつくると、最初の父―母(父母が同い年だとして)の誕生から125年の月日が担保されます(担保の内実がなにを意味するかは置いておきましょう。とりあえず存続)。その子どもがまた25才で子どもをつくります。そうするとその時点で父―母の代から数えて150年の月日が担保されるということになります。父母―子―孫の人生の総時間は400年です。100×4。

最初の父―母が、30才のときにも、また子どもをつくったとしましょうか。そしてそれぞれの子がまた25才で子どもをつくります。30才でも。するとどうなりますか。もう、この時点でぼくにはよくわかりません。というか総時間+500年です。計算合ってますかね? とにかく、その血筋というか家族が、この世のなかに生存している「のべ時間」がすごく増えることがわかりますね。それはつまり、ある限定された絶対時間のなかに、たくさんの総時間が発生することを意味します。

これがじつはとんでもなくすごいことだ(そうなんじゃないかとおもうんだけど、どう?という内容の文章みたいです、これは。どうやら)。こんな話、聞いたことないし。

なぜなのかを「ズバッ!」っといいましょう。往年の「みのもんた」ばりに(とか、こういうことを書くと、とたんにすごくおじさんっぽくなる)(そしてカッコが多すぎるのもどうかとおもいます……)。

たとえば、100年という絶対時間がこの地球上に流れるとしますよね。もしその世界の住人が1人だと、総時間は100年です。それが10人だと、100年のなかに、のべ1000年分の時間が存在することになる。だから70億人なら100年は7000億時間です。7000億時間とは、ざっと8千万年です(計算がまちがっていたらすみません!)。

(酔っぱらって書いたからまちがってた!70億人なら7000億年じゃないか!)

それがどのようなタイムスケールなのか、補足的に書き記しておくなら、たとえば8千万年前は、恐竜の全盛期です。6550万年前の白亜紀末に恐竜が絶滅したといわれています。とかいわれてもよくわからないですよね……。

ぜんぜんべつの話をしてみましょう。ぼくは山手線によく乗ります。そのとき、だいたいぼんやりとしています。でもときどき、他ならぬこの人間だけが街をつくり、線路をつくって、そこに電車を走らせ、まいにち乗ったり降りたりしているのだ。という事実にほとんど驚愕することがあるのです(そのことは誇らしくさえある)。

犬も猫もそうしなかった。ゴリラもチンパンジーも。ついに電車を走らせたのは人間だけです。それはたぶん、人間だけが累積する時間の概念を持ったからではないだろうか?

というのが、もうこの記事を終わらせるための手っ取り早い結論で、つまりはもう、今夜はぼくは寝ます……。