Be afraid―土鍋と二槽式(2)

大学を出てから数年のあいだ、アルバイトで肉体労働をしていたとき、二槽式の洗濯機でまいにち作業着を洗っていた。

事務所の中庭のような場所には3台くらい二槽式があって、1台だけが全自動だった。全自動しか空いていないときには二槽式が空くのを待った。職場のみんなも「全自動?めんどくせえ」みたいな風潮だった。それほど二槽式は全自動より使いやすかったのだ(もちろん、これはあくまでも少量の衣類をまいにちこまめにさっと洗う場合の話である。複数人が居住する一般家庭における洗濯機の使い方とはだいぶ話がちがいます)(なんだこの企業の免債みたいな文章は)。

21世紀に入って、まだ間もないころの話である。

というよりも全自動ははっきり使い勝手が悪かった。なんだかどっしり偉そうな感じにもみえた。いくらなんでもそれはぼくのおもいすごしというか、苦手意識まるだしな感じがしないでもないのだけれど(そのころ、ぼくは全自動洗濯機を使ったことがなかったので、使い方があまりよくわからなかった)、つまりはこういうことだった。洗い、すすぎ、脱水のそれぞれの工程に介入しづらい。臨機応変にいかないのだ。あんまり汚れていない日も、すごく汚れた日も、おなじ時間をつかって洗おうとする。だいたい1時間くらいかかったのではなかったかとおもう。

その一方で二槽式は、じぶんのさじ加減次第。ぼくはだいたい30分以内で終わらせることにしていた。ジリジリ鳴る懐かしいあのゼンマイ式のタイマー。なんだかおもわず名前をつけたくなるような、どこかおもちゃっぽさのある愛らしい製品たち。水のなかでぐるぐる回る水色の作業着を飽きもせず眺め、その音とリズムに耳を澄ませていると、どこかしら一日の労働の疲れが癒やされてゆくようなふしぎな効力があった。そこの二槽式たちはどういう理由なのかわからなかったが、洗い層の側のふたを例外なく外されていた。だから洗い、すすぎがだれにでも丸見えだった(ふたの開け閉めがいちいちめんどうくさいから外されていた。みたいな理由だったとしたら、即物的でいかにもそこの職場にはふさわしい)。

脱水のときに、洗濯物がかたよってガコンガコン鳴ると「ごめんごめん」と心のなかでおもったものだ。いま直すからちょっと待ってね。左から2番めの「デイジー」がぼくのお気に入りだった。あれ? ちゃんと名前つけてたよ。

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……ときどき、祖父も祖母もみんな亡くなってしまい、父までもが亡くなってしまったという事実をふと意識すると、とても怖くなってしまうことがある。え?って一瞬おもう。それって超ヤバいじゃん。手放しで味方してくれるひとが、もうぜんぜんいないってことじゃん。

でも、それと同時に、じぶんはもうだいじょうぶなのだ、うん、もうだいじょうぶだなあ、とおもう気持ちもある。というか、だいじょうぶじゃないと、かなりヤバいかもしれないけど。もうアラフォーなんだし。

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まだちいさかったころ、もし親がいなくなってしまったらじぶんはどうなるのだろうとかんがえて、急に怖くなってしまうことがあった。きっと、だれでも、いちどはそんな風におもったことがあるのではないかとおもう。どうなんだろう。ぜんぜんそんなことないひとだっているのかもしれないけれど。

ぼくはほんとうにじぶんではなにもできない子どもだったから、いったいどうやって生きていけばいいのだろうとかんがえると、とても恐ろしかった。もし、ひとりになってしまったときに、ちゃんと生きていけるのだろうか? ひとりで生きるということが、まるで死そのものみたいに感じられていた。そのころには。

父はどちらかといえば九州男児みたいなもので、「男子厨房に入らず」みたいにして育てられたほぼ最後の最後の世代で、台所に立ってなにか料理をしているのを、ぼくは結局、生涯でたったの一度しかみかけたことがなかった。母がひどい風邪をひいたときかなにかに、たしか、おかゆだか、おじやだかをつくっていた姿だ。そのほかの家事をしているのだって、まったくみたことがない。家の洗濯機をいちどでも回したことがあったのかどうかだって怪しいものだ。驚くべきほど典型的な、高度成長期末期の、サラリーマン−専業主婦モデルの家庭でぼくは育ったのだった。

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16歳のときに読んだ小説に影響されて、ぼくはしぜんと料理をするようになった。おこづかいでパスタやらにんにくやらホールトマトやら赤ワインやらベーコンやらを買ってきて、深夜に料理をした。ぼくはじぶんのつくったものをだれかにたべてもらうことがほんとうに苦手で、たぶん1回だけ、弟にホワイトソースのパスタをたべてもらったことがあったような気がする。なんだか死ぬほど恥ずかしかった。そのとき、ぼくは料理人には決してなれないとおもったものだ。

だからいままで、ぼくのつくった料理を食べたことがあるひとは、地球上に5人しかいない。

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そのころのレパートリーはトマトソースのパスタとホワイトソースのパスタ。それからオムライスくらいのものだった。それでも料理をすることは楽しかった。小麦粉とバターと牛乳で、せっせとホワイトソースをつくった。いろいろな分量と方法を試しながら。もちろん、たくさんの失敗をした。でも、それでも、責任をもってじぶんでたべなければならないのだ。そのころはインターネットもクックパッドもなかった。ぼくは小説を片手に料理をしていたのだった。小説に書かれているレシピというか、文章で料理をしていたのだ。まるで19世紀のことみたいだ……。なんだか信じられないけれど。

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母はにんにくというものをいっさい使わないひとだった。きっと、いまでもまったく使っていないだろうとおもう。たとえば、スパゲティは茹で置きで、サラダ油がまぶされており、雪平鍋に開けられた缶詰のミートソースを温め直せばいつでもたべられるようになっていた。ラップされた大量のスパゲティ。ラップの内側の水滴。

ぼくは母親を批判したいわけではまったくない。はっきりいって、ぼくは、あのスパゲティ・ミートソースが好きだった。でも、ぼくはいまとなっては、あれをどうやってもつくることができないとおもうのだ。単純に情報量のちがいなのかもしれない。ぼくたちの世代は、たぶん、もうパスタを茹で置きしたりしない(そんなこともないのかな?)。ぼくたちはイタリア人がそうするのとだいたいおなじようにパスタ料理をつくってたべているとおもう。なるべく茹でたてをたべること。電光石火で。それがいちばんおいしくたべる方法だからだ。Guaje e maccarune se magnano caude。

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この文章は、全体的に、日本における、昭和以降のジェンダーに関する考察である(そうなる予定)。

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うす暗い乾燥室で乾かすひとたちが多かったなか、ぼくはなるべく事務所の屋上に洗濯物を干すことにしていた。だれのものなのかわからない、古ぼけたピンチハンガーを使わせてもらって。バイトには2着しか作業着が支給されておらず、ちょっとかんがえればわかることだが、1着はつねに着ているのである。だから必然的に絶対にまいにち洗濯しなければ、明くる朝、あたらしい作業着で作業することができない。というような境遇だった。せめてもう一着あったらどんなにいいだろうかとなんどもおもったものだ。

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色あせたプラスチックの洗濯ばさみは長いあいだ雨風にさらされ、容赦のない夏の光を何年ものあいだ直接浴びせられ、消え入りそうなほど淡い水色に変色していた。少しでも力を入れると、もろくなった骨のようにいまにも粉々に崩れてしまいそうだった。屋上に干すひとたちはほとんどだれもいなかった。夏なら1時間くらいで洗濯物は完全に乾いた。ほほに押し当てて、ちゃんと乾いたかどうかをたしかめる。いつもかならず「おひさま」の匂いがした。なにかがリセットされた匂いだ。菌が繁殖していない衣類の、清潔な匂い。安心する、どこかなつかしい匂い。それなのに、洗う前よりも複雑な匂いがするように感じられた。

洗濯物を干し終えると、日陰を見つけて屋上でよく本を読んだ。村上春樹の『海辺のカフカ』が出たころの話だ。夕暮れにはまだちょっとはやい光の感じ。汗を乾かしてゆく風の感じ。そのときのことはいまでもよく思い出せる。

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『海辺のカフカ』を読んでいたぼくに声をかけてくれたNさんとは、いまでも年に数回は会っていっしょに生ビールをのむ。そして、スティーブン・キングを愛してやまない店主がやっている高円寺のちいさなお店で、Nさんのボトルの胡麻焼酎をのむ。

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仕事が終わると荻窪の駅へ向かう途中の古本屋に寄って本を買い(荻窪ではまいにち4件くらい古本屋を回っていた)、駅前のカフェやファミリーレストランでよく生ビールをのんだ。買ったばかりの本を読みながら。これは肉体労働をしたことがあるひとにはよくわかることだろうとおもうけれど、そういう日は、午前中から細かく水分の調整をした。ビールは身体のすみずみにまで染み込んでいくようだった。砂漠に降るしずかな雨みたいに。いや、ほんとうに細胞のひとつひとつに、ちゃんと染みこんでゆくのだ。ときどき、細胞が水分を取り込む音が聴こえるような気がした。土に水が染み込むときの音だ。