エネループを買いに

20年前のきょう、ぼくは鎌倉にいた。

そのときぼくは18才で、たぶん高校の卒業式を終えたばかりだった(とおもう。卒業式がいつだったのかは忘れてしまったから、確かなことはいえないけれど)。

大学には受からなかったので、少なくとも1年間は浪人生活を送ることが確定していた。だからといって予備校に通うつもりはまったくなかった。いったいなにをかんがえていたのだろう?

でもぼくはじぶんひとりで勉強をして大学に行くつもりだった。それ以外の選択肢はかんがえられなかった。そしてそんな風なとても強い決意のわりには、ほとんど勉強しなかった。高校の教科書をそれぞれ何回か読んだくらいだったような気がする。いったいどういうつもりだったのか。

あの1年間、ほんとうになにをしていたのだろう。それで、現役のときでも受ければ受かったとおもう大学に入った。テストはあまりにも簡単だった。満点に近かったとおもう。もしぼくが現役であの大学に入っていたとしたら。ぼくの人生はいまとはまったくべつのものになっていたはずだ。

……でもそれはまたべつの話。

*****

つぎの4月になっても入学式も始業式もない、ものごころついてから初めての3月の下旬。まいにちのように、似たような境遇の近所の友人と「Jリーグ エキサイトステージ ’94」を朝まで対戦プレイしていた。何試合でも飽きることなく。スーパーファミコンのサッカーゲームだ。ぼくたちの実力はほぼ互角で、技術力はもう上限に達していたので、試合はほとんど心理戦の様相を呈していた。相手の心をどれだけ読めるかが得点につながるのだ。だからこそ、ぼくたちはそのゲームをいくらでも続けることができたのだとおもう。それはもうサッカーゲームを超えたなにかだった。なんだか、ばかみたいだけれど。

そしておなかが空くと「すき家」に牛丼を食べにいって、「じゃあ」といって別れた。そういう日々を過ごしていたので、たまにはどこかに出かけてみようじゃないかと急におもい立った。それが19日の深夜のことだった。このままではなにかがほんとうに駄目になってしまうという、ぎりぎりのところだったのかもしれない。なんとなく鎌倉にでも行くか、と決まって、また数時間後にかれと待ち合わせる約束をした。

*****

何時間かねむって起きてみると、テレビのニュースが大変なことになっていた。地下鉄になにかガスのようなものが発生して、たくさんの乗客が倒れたり、路上に寝かされていたり、病院へ搬送されるというような状況がテレビには映し出されていた、とおもう(あとからたくさんの事件に関する映像をみたので、いまとなっては当日にどのような報道がなされていたのか、よくおもいだせない)。

印象的だったのは、地下鉄の駅の階段を上がったそばの植え込みのところやなんかにひとが倒れていて、ただごとではない状況が出現しているなか、一方では、まったくいつもと変わることのない日常が、シュールな夢のように隣り合わせに共存していることだった。そのときの、ちぐはぐな風景。空撮の映像。聖路加国際病院。

*****

約束の時間にぼくの家にやってきた友人と「どうする?」という話になった。電車がなんとなく危ないのかな、という曖昧な予測で、きょうはやめたほうがいいのではないか、という気もちも少なからずあったからだ。

でも結局のところ、ぼくたちは電車に乗って鎌倉に行った。なんで鎌倉に行くのかぜんぜんよくわからなかったけれど、とにかくそうすることに決めたから。という、ただそれだけの理由によって。ぼくたちはまだ若く、必要以上にじぶんたちの運命に対して意味を与えすぎていた。その事件が起こったことと、ぼくたちの鎌倉行きはただの偶然によって重なってしまったわけだけれど、だからこそ、ぼくたちは行かないわけにはいかないとおもったのだった。はっきりいって意味不明だけれど。

*****

しかし、ある意味では、それは、ぼくたちにとっては大切な出発の日だったのだ。それはとてもとても特別なことだった。そのことは、いまになってみればよくわかる。なんだかよくわからないけれど、そこからいろいろなことをなんとかして始めていこうじゃないか、ということの象徴的な行動だったのだ。なんだか説明するのがすごくむずかしいのだけれど。

*****

立川駅で南武線に乗り換えるときにかなり心配だったことを、ぼくはこれを書きながら鮮明におもいだした。日常的な場所が、ぜんぜんいつもとはちがってしまったように感じられた。結果的にはそんな地域はぜんぜん平気だったわけだけれど。それでもなにかが昨日までの世界とはガラリと変わってしまったことがわかった。まるでスイッチを切り替えたみたいに。突然、見知らぬ部屋に押しこまれてしまったみたいに

ぼくたちはほとんど会話もないまま、なにごともなく鎌倉の駅へ着いた。ほっとすると同時に、なんだかあまりにもいろんなことがばからしかった。鎌倉でいったいぼくたちはなにをしたのだろうか? ほとんどなにもおもいだせない。そこはほんとうに鎌倉だったのだろうか?

ただおぼえているのは、海岸沿いに長く弧を描くざらざらした防波堤のうえに座って、ローソンで買ったおにぎりだかサンドイッチだかをたべたことだ。海をながめながら、うす曇りの空のしたで。おたがいに微妙な距離を保ったまま。なんだか全体的に灰色っぽい記憶だ。まわりにはほとんどだれもひとがいなかったとおもう。遠くでサーファーたちがサーフィンをしているのがスローモーションのように視界の片隅に入っていたような気もするけれど、いまとなってはよくおもいだせない。ただぼくはそのときに、つぎのようなことをおもった。これはちゃんとおぼえている。ことばにすれば、こういうようなことだ。

*****

ここからは海がみえていて、波が寄せては返し、とても穏やかな時間が流れている。けれど、ここではないどこかべつの場所では、想像もできないようなおそろしいことが起きているのかもしれないし、じっさいに起きているのだ。その「おそろしいことの芽」は、いつでも、どこででも、目には見えない土のなかの暗闇で育っていて、地表にあらわれるそのときまでは、だれも気づくことなんてできないのかもしれない。遠くからはもちろん、その近くにいてさえも。

*****

そのときに防波堤のうえでおもった、とても当たりまえにもおもえるような気もちが、いま現在のぼくという人間を形づくることになった最初の一日のできごととして、里程標のように刻み込まれているのを感じる。「絶望的」というあまりにも残念ですり切れた単語でしか言い表せない、どうしようもない無力な感じ。途方もなく、絶望的に絶望的な感じ。この先いったいどうなるのだろうという、自分自身の漠然とした不安な気もちとも、おそらくはないまぜになった、70リットルのゴミ袋にため息がいっぱいの感じ。

ぼくは帰りがけに鎌倉駅前のデパートで電池を買った。単3のアルカリ電池だ。どうしてだろう? 安かったからかな。おそらくは、いまはなき「aiwa」のポータブルCDプレーヤーのためにだ。そんなところで買う必要なんてぜんぜんなかったんだけれど。

*****

あれから20年たって、いま、ぼくは、あのときの無力感が、そのまま、まるごと、ここにあることを感じている。ここ、というのは、ぼくの胸のまんなかのあたりだ。泉新一の、深い傷のあるあたり。冬に猫がのっかるそのあたり。めぐりめぐって、ぼくはまた、ほとんど、あのときとおなじような海岸で海をながめているような気分だ。その波はかつてよりも荒く、もうサーファーだってどこにもいない。ぼくはもう押し流されてしまうかもしれない。

*****

波が地表を洗い流したあとで、たくさんの「おそろしいことの芽」が育っていた姿を、ぼくたちはみんな目にすることになった。もちろん、あの日のことだ。でもそれはいつか顕在化するはずの潜在的なものだった、といえないこともない。それならば、その発見が早まったことを、どうにかして活かす方法はないものだろうかとぼくはおもう。

*****

それでもかろうじて、生き残ったぼくたちは、20年たっても防波堤のうえにいる。上出来だといったって、かまわないくらいなのかもしれない。ともかくぼくはまた、象徴的に、なんらかの電池を買う必要があるのだろう。

というわけでエネループを、さっき買ってきた。