When I’m Sixty-Four(64才になったら)

1月最終週の「週刊フジテレビ批評」に、ジャーナリストの綿井健陽さんが出演されていた。不勉強ながら、かれの名前に聞き覚えはなかった。その放送をみて、すぐにかれのtwitterアカウントをフォローすることにしたおれは、2月11日に「座・高円寺」で行われる「ドキュメンタリー・フェスティバル」で、綿井さんの監督した映画が上映されるとの情報を入手することになった。『イラク チグリスに浮かぶ平和』という作品だ。

どうしようかな。行けたら行きたいけど。

まったくいつもながらの曖昧な態度で、おれは上映の前日を迎えたのだった。

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この文章は、ちなみに、理想的には、2015年の2月12日にアップされる予定だった。そういう気もちがあったことを、かすかにでもぼくは記しておきたい。

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当日券の1500円で、コンペティション部門入賞の4作品がみられるとのことだった。一本あたりが安い!

おれは朝9時にiPhoneのアラームをめずらしくセットした。一作品目は10時からだ。

いったん8時に起きた。アラームの意味なし。でも寝たのは6時過ぎだったので、おれはまだ眠かった。ちかごろは毎日のように死ぬほどのアニメやらドラマやらをチェックしなければならないのだ。1.5倍くらいの再生スピードで。それから映画。このままだと年間130本ペースだ。そして本を読みはじめるのはいつもいちばん最後だ。かならず朝になってしまう。なんでなのかはわからないが。

まだ起きるにはちょっと早いかな。むにゃむにゃ。

次に起きたときは11時くらいだった。もうおそい。アラームは消しちゃってたみたいだ。おれのバカ。でもまあ綿井さんの作品は4作品目の15時40分からなので、とりあえず起き上がってカーテンを開けた。すげえいい天気。すると電話が鳴った。ボスからだ。ボス兼友人。

「『ニンフォマニアック』はvol.2からみてもよいものだろうか」とボスはいった。
「いいえ。vol.1からみてください」とおれは簡潔にこたえた。

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そうした会話のおかげで映画魂がいみじくも立ち上がり、いちども鏡をみないまま家を出るくらいにおれの心を鼓舞したのだった。

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ひどい寝ぐせだった

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でもおれはそこに行く気もちな感じだったのだ。高円寺にだ。ちょっと意味がわからないかもしれないが、おれはその当日のまったくそのときになってみなければ、あるなにかをするかどうか決めないことにしていて、だからほとんどこちらからひとと約束はできない(みなさん、そういうことなのです)。でもおれは14時上映開始の作品へ向けて家を出たのだった。もしそこに辿りつけたらそのときは、その場所に、ほんとうに行きたかったということなのだ。

しかしながら、途中で、さまざまな、多岐にわたる、複数の選択肢があった。いつものことだ。山手線に乗るか、埼京線に乗るか。代々木公園のクラムボンのフリーライブに行く可能性。電車に乗らず、シネ・リーブルで『さよなら歌舞伎町』を1100円でみる可能性。水曜サービスデーだからだ。そのままイスラム国の一員になる可能性…だって…まったくないということはなかった。…ないか。

(いちおう断っておくと、ブコウスキー風に書いています。うろ覚えで)

でもおれはすんなりと「座・高円寺」に辿り着き、その建物に足を踏み入れた。チケットを購入し、無事に座席を確保した。座席を確保したあとで、映画をみながら飲もうとおもってロビーで売っていたコーヒーを買った。有機なんちゃらのコーヒー豆のなんちゃらコーヒーとかそういう感じだ。いや、わからない。フェアトレード的な商品だったかもしれない。とにかく中央線沿線的なコーヒーであるとおもったことは確かだ。いや、それもどうかな。そんな決めつけはよくないな。とにかく300円のコーヒーだった。まあまあ高い。さっそく購入したコーヒーを持って場内に戻ろうとしたときだ。係員がいった。

「チケットをお見せください。それから場内では飲食できませんので

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おれは即座にピーコートの内ポケットのリボルバーに手を伸ばし、係員に照準を合わせ、引き金を引いた。バン!

残念ながらというか、ご安心くださいというか、心のなかのリボルバーの引き金だ。口では「あ、そうなんですね!」とさわやかにいいながら。はじめからどこかに飲食禁止の旨を書いておいてもらいたいものだとおもいながら。まあどこかに書いてあったのかもしれないなとおもいながら。なぜチケットを確認したあとで飲みもののことをいうのだとおもいながら。

おれは、上映時間に間に合うように急いでコーヒーを飲み干さなければならなかった。ロビーで。

とにかく、そういう一連の出来事の生起は、じつは、ほとんど僥倖といってよい。とおれはおもうことにしている。でも、いちいちそんなことを気にしてられないのが現代の日常生活というものだ。ただ、おれは朝からなにもたべていなかったので、ずっとお腹が鳴りっぱなしだった。これは太古のむかしから変わらない。(と、ここまで書いて、どれくらいブコウスキーになっているか確かめるために、『パルプ』をぜんぶ読み直してみた。うーん。あんまりうまくはいってない感じ。おれは優しすぎる)

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まずは駄菓子屋を舞台にしたドキュメンタリー『風和里〜平成の駄菓子屋物語〜』という作品をみた。はっきりいってまったく期待していなかった。ほんとにバカみたいだけれど、タイトルが漢字ばっかりだったから、というのが主な理由なのである。たぶんちゃんとタイトルの意味は頭に入っていなかった。ほんとうに観客というやつはひどい。というかひどいのはおれなのだが。

映画の舞台は大阪の富田林市にある、ちいさな駄菓子屋である。

その駄菓子屋は、もちろん、ちいさな子どもたちが日常的にやって来て、お菓子を買ったりやなんかする場所でもあるのだが、中学生や高校生になってもずっと通い続ける若者たちがいるのだった。映画はそういうかれらにスポットを当てている。どうしてかれらはその駄菓子屋を訪れるのか?

それはまるで祖母と母親のような、2つの世代の魅力的な女性がお店をやっているからなのかもしれない。その駄菓子屋は、いろいろな、それぞれの境遇で、ほかには行き場所がない若い子たちの、駆け込み寺のような機能を有しているのだった。

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この映画をみて、おれはいつかその駄菓子屋に行ってみたいとおもった。それがこの映画のすばらしさをいくらかでも証明しているとおもうし、証明することになればいいなとおもう。とにかく、掛け値なしに、だれにでもみてほしいとおもえるような作品であることは間違いない。とか書くと死ぬほどステマというか嘘っぽいのだけれど……。

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そして『イラク チグリスに浮かぶ平和』だ。

まずいちばんはじめにいっておきたいのは、なんといっても、イラクの子どもたちのあまりのかわいさだ。きっとこの映画をみたら、だれもがメロメロになってしまうとおもう。いや、それはもちろん、おれの主観的な判断なので、あの子どもたちをみて、ぜんぜんかわいくないとおもう価値基準をもったひとたちだっているのかもしれないと基本的にはおもわなくもないのだが、いや、あれがかわいくないなんてありえない。とあえて断言したいくらいにどうしたってかわいい。うん、絶対にかわいい。人類の絶対的価値基準だといっても過言ではない。そして、そのような種類のかわいさの子どもたちが、おどろくべきことに空爆で死んでゆくのである。いったいこれはどういうことなのだろう? ぜんぜんよくわからない。

(たぶん、いくらでも、これから先『イラク チグリスに浮かぶ平和』という作品は、あなたがみたいとおもったら、みることができる作品だとおもう。もしみたらそのときは、この映画について話しましょう!)

もちろん、ほかにも、いろいろ、おれには、わからないことがいっぱいある

そして、みんな、じぶんがなにをやっているのかなんて、ほんとうのところ、よくわかっていないのかもしれない。わからないままで、とにかく、まいにちをどうにか過ごしているというだけなのかもしれない。空爆は、よくわからないが、たぶん仕事だ。その空爆を指示することも、また仕事だ。お父さんがイラクを空爆して稼いだお金で生きながらえている子どもたちの国の大統領の指示。そこには善悪なんてなく、むきだしの弱肉強食が展開されているだけ、といった風景がただただ広がっているばかりなのかもしれない。いや、そんな風景すら広がっておらず、

「いってきます」
「いってらっしゃい。ほらパパにごあいさつ」
「ぱぱ、いってらっしゃい。はやくかえってきてね」(頬にキス)
「なるべく早く帰ってくるよ」(逆の頬にキス)

→空爆
→いろいろあって
→帰宅(逆の逆の頬にキス)

みたいな、ただの日常なのかもしれない。ひとは、じぶんができることしかしないし、しようとしないのかもしれない。でも、それだと、いったいどうなっちゃうのかな。ということは、2015年のおれたちには、なんとなくわかりかけているんじゃないかとおもう。そうであってほしいんだけど。

すくなくともビッグデータはわかっているにちがいない! おれは人工知能に期待したい。世界平和の最適解が、かれらの計算によって弾き出されるかもしれないからだ。みんなそれぞれ部屋に花を飾りましょう。みたいなことになったりして……。

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素朴か!

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おれは常々、ふしぎにおもっていることがある。それは、友人の子どもたちが、みんな、もれなくかわいいということだ。これはただの偶然なのだろうか。それとも統計的データとしてかわいい赤ん坊が増えているというような事実があったりするのだろうか。あるいは、かわいいとおもう基準が、なんらかの理由で変化した結果、かわいくおもえる子どもたちが実感として増えたように感じるということなのだろうか。

どうしてそうなったのか、ということはわかるような気がする。

大切なものを守るようになっている気がするからだ。

でも、そこには、なにか大きな意志の介在が感じられた。少子化が叫ばれてひさしい日本の子どもたちがみんなかわいいように、イラクの子どもたちもみんなかわいかった。映画のなかで。そこには神の差配があるようにすら感じられた。神の関与が。神とはいわないまでも……。なんというか、この感情をあまり話す気にはなれないのだが。

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えーと。とにかく機会があったら、この映画をみてもらいたいです。「チグリスに浮かぶ平和」とは、チグリス川の上に浮かぶ船に乗っているあいだだけは、建物を狙った空爆も、自動車テロによる爆発もないので安心できる、というような意味だとおれは理解した。ネタバレだけど、そんなことはどうでもいい。それが、この映画のタイトルの意味である。そこから文明がはじまったというような場所で。

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2月12日は父の誕生日だった。もし生きていたら64才だ。ぼくは、もちろん、すぐにビートルズの「When I’m Sixty-Four」をおもいだした。そりゃそうだ。それで、こういう感じになったのだ。

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おおざっぱにいえば、追悼みたいなことだ。この文章の全体が。いろいろな追悼のしかたがある。どういう意味なのか、ぼくにもよくわからない。『イラク チグリスに浮かぶ平和』をみたら、ちょっとはわかっていただけるのかもしれない。

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僕の髪の毛が薄くなって 年を取っているとき
今から ずっと先の事だよ
君は それでも バレンタインのプレゼントをくれるかな?
誕生日祝いの ワインのボトルは どうかな?

もしも 夜中の3時15分前になっても 外出しているような時には
ドアに鍵を掛けてくれないか
それでも 僕が必要かな? それでも 食事を並べてくれるかな??
僕が64歳になったときに

君も 年を取るんだよ
もしも 君が この言葉を使ってくれたなら
君と一緒に居られるんだ

僕は フューズを直すにしても 便利だよ
ライトが消えたときに
君は 暖炉のそばで セーターを編んだりできる
日曜日の朝には ドライブさ

ガーデニングをやって 雑草を抜いて
これ以上のものが 必要かい?
それでも 僕が必要かな? それでも 食事を並べてくれるかな??
僕が64歳になったときに

毎年 夏は コテージを借りるんだ
ワイト島にね それほど高くなかったら
僕達は 切り詰めるつもりだよ
孫を 君のひざに乗せ
ヴェラ チャック そして デーブ

ハガキを送ってくれよ 手紙をくれよ
観点を述べておくれ
正確に 君の伝えたい事を書いておくれ
敬具 ウェイスティング・アウェイ(憔悴男)より

君の答えをもらえないか?  用紙を埋めてくれよ
永遠に 僕のものである為に
それでも 僕が必要かな? それでも 食事を並べてくれるかな??
僕が64歳になったときに

(The Beatles『When I’m Sixty-Four』)