Don’t let it be―土鍋と二槽式(1)

昨年の暮に、おもいがけず新米をいただいた。ジップロックでちょうど八合。そうしたら幼稚園のころ、ビニール袋に入れた一合くらいのお米を持たされたことがあったのを急におもいだした。お泊り会かなんかのときだったかも。みんなでお米を持ち寄って、カレーでもつくってたべたのでしょう。きっと。

そういうことは何回かあったようにおもう。スーパーマーケットでトイレットペーパーのようにくるくるとひっぱり出せる、ふと気づくとおばちゃんたちが必要以上にひっぱり出している、あの薄にごりのしわくちゃな、半透明のビニール袋。薄にごりの半透明は重複表現かな……。

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じつは、ぼくはもう4年くらいお米を買っていなかった。このご時世、非国民のそしりを免れないかも。ときどき電子レンジで2分あたためるやつをたべることはあったけれど、基本的に家でお米をたべるのをやめていたのだった。まあダイエットのため、といっておこう。

なにはともあれ、せっかくいただいた新米なので、ひさしぶりに炊飯を解禁…しようとおもったけれど、炊飯器は台所の片隅で4年のあいだに油まじりのほこりを皮膚のようにまとって、真夜中過ぎにたべものをたべて繭をはったグレムリンみたいだった。おぞましかった。なかからなんか得体の知れないものが出てきたり…はさすがにしなかったし、グレムリンは言い過ぎで、あくまでも(グレムリンだけに)そういう印象を受けたまでの話だ。けれどでも、液晶の文字とかいっさい読めなかった。ひどいもんです。

だから初めて土鍋で炊いてみた。すばらしかった。電気炊飯器がなぜここまで普及したのか、その意味がよくわからないほど土鍋で炊いたごはんはおいしかった。ちゃんとしっかりおこげだってできていた。ふたを開けたときのあの感動はなんだ。遺伝子に組み込まれているのか。踏み絵か。あれで日本人かそうじゃないかがわかるのか。面積が広いのがいいのかな。きらきら。お米がよろこんでいるみたい。白い。などなど、いろいろな感想がわいた。もくもくと。しあわせの蒸気とともに。

そしてこれが重要なのだけれど、土鍋でごはんを炊くのはあまりにも簡単だった。死ぬほど不器用な、その不器用さによっていずれ死ぬることになるであろうぼくにだってできる。お米を研いで30分以上浸水させる。ざるに上げてよく水を切る。土鍋に入れる。浸水させる前のお米とおなじ量の水も入れる。そしてなんらかのタイマーを15分にセット。沸騰するまでは強火で(だいたい15分の半分くらいの時間)、そのあとは弱火。15分たったら火をとめて、15分蒸らす(蒸らすあいだは土鍋をバスタオルとかでくるんで保温するとよいみたい)。

なんと美しく洗練された作業工程だろうか。いちど覚えたなら、おそらく二度と忘れはしまい。なにしろ人類はもう7000年もお米をたべてきたのだ。どうすればおいしくたべることができるのか知り尽くしている。長い時間に裏打ちされた圧倒的な知識。安心・安全・安定の三拍子。

2015年は家でお酒を飲むのをやめて、お米をたべることに決めた。なるべく、たべるごとに土鍋で炊くことにしたい。

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あのころは実家にもあのビニール袋がいっぱい溜めてあった。なんというか昭和の台所って感じだ。ぼくはあれがちょっとだけ嫌だったようにおもう。ビニール袋をとっておくという行為自体もなんだか貧乏臭くて嫌だったし、それにお米だ。お米をあれに入れるのが嫌だった。お米なんてあとで洗うからいいようなものだけれど、ぼくはなんとなく不衛生な気がしていたのだった。そしてそれから、かばんのなかでビニールが破れてしまうんじゃないかということをぼくは心配していたのだった。ぼくは幼稚園のときは自家中毒だったから、なにかにつけて心配症だったのかもしれない。

ともあれ、われながら変なことを記憶しているものです。おそらくは33年くらい前の話だ。

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……33年前のある冬の日。ぼくの手はかじかんで、うまく制服のボタンをはめることができないでいた。ちょっとだけ泣いちゃってたかもしれない。ただただ突っ立ったままで。なにしろ、ぜんぜん指が動かないのだ。ほんとうに困ってしまったことを昨日のことのように、いまはっきりとおもいだす。もう今日いっぱいで幼稚園はやめよう。そもそもぼくがこのような集団生活に馴染めるわけがないんだ……。幼いころのぼくは、そんなことを早くも決意しかけてしまっていたのかもしれない。

そのとき、ぼくのところにやって来て、ボタンをはめてくれた女のひとがいた。救世主のように、あるいはスーツセレクトの店員のように。あれはいったいだれだったのだろう? もし幼稚園の先生だったら膝立ちをしていたはずなのだけれど、記憶はあやふやで、もしかしたら1つ年上の年長の女の子だったのかもしれない。いずれにせよ、遅かれ早かれ、結局のところ、その後の人生において、ぼくはいくつものボタンを掛けちがえ、もうボタンなんて二度とごめんだ、という心境におちいっていまここに至るのだけれど、それはそれでまたべつの話である。なんでもないようなことが幸せだったのかもしれない。……どうかほっといてほしい。

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かばんのなかのビニール袋が破れてお米が散らばってしまうのが心配な子どもだったぼくは、もちろん、かばんのなかのペットボトルのキャップを固く閉める人間に育った。けれども、この世には、かばんのなかにペットボトルの中身をこぼしてしまうひとたちが存在する。キャップをちゃんと閉めないひとたちが。ほんとうに信じがたいのだけれど、その、なにかが知らないところで予期せずに広がってしまうことに対する恐怖が、ぼくはとても強いのかもしれないとはおもう。それはやっぱり、あのことあのことあのことによって生じた教訓とでもいうものであろう。

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……向かいの家の植木にだったろうか、カマキリの卵を見つけて、枝ごとそっと持ち帰り、家のトイレの窓枠のところに置いていた。小学生のころの話だ(タイムマシンができたら、どうしてそんなところに置くのだと問いたい)。すると、あるとき、いっせいに孵化して、ちいさな茶色いカマキリがうじゃうじゃと、あのふしぎな形状の卵のなかからあふれ出てきたのだった。その誕生の様子は、なんだか千羽鶴に似ていた。

……玄関の隅っこに、わりとおおきな蜘蛛が巣をはっていた。部屋よりも一段ひくい玄関だから、子どもながらに上から目線で観察できてうれしかったのだとおもう。飼育しているような気分だった。極めて安全とおもわれる場所から気軽に毎日のようにながめていると、目の前でその親蜘蛛は出産した。出産というか、抱えていた卵から子が孵ったのである。ほとんど無限のちいさな蜘蛛たちがマグマみたいに膨れ上がるようにして、親蜘蛛の体内から一気に増殖したのだった。まさしく「蜘蛛の子を散らす」とはこのことだった。というか、うごめくコーヒーの粉みたいだった。

……多摩川かどこかでたくさんのおたまじゃくしをつかまえてきて、青色の屋根のようなふたがついた、透明なプラスチックの虫かごに飼っていた。ぼくはそれを、なぜかはわからないが浴室に置いていた。ある日、ぼくは、虫かごのなかからすべてのおたまじゃくしが消滅したのを発見する。そういや近頃、うっすら脚とか生えてたもんな。そうか。みんな蛙になって、かごのなかから飛び出していったんだ。おめでとう! 蛙は、風呂場はおろか、家のなかのどこをどう探しても一匹も見つからなかった。

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なにかが増殖し、内側からはじけて、それまで被っていた薄い膜を破り、外側に出る。出てくる。出てきてしまう。それをある種の豊穣さであるということもできる。繁茂し、繁殖し、繁栄する生命のイメージ。あるいは宇宙の創世とその爆発的で継続的な拡大のイメージ。土のなかの種がやがて根をはり、芽を出して、茎をのばし、花を咲かせ、その実を実らせる。その実が地面に落ちると、また新しいむすうの種が大地にばら撒かれる。愛すべき生まれて育ってくサークル(©小沢健二)。その途方もないくり返し、連鎖のはてにぼくたちはいて、お米をたべたりやなんかしているわけだ。もぐもぐ。

しかし同時に、その制御できなさに、ぼくはずっと恐れを抱いてきたようにもおもう。知らないところで増えすぎてしまうなにか、育ってしまうなにか。外へ向かって出て行ってしまうなにか。どこかへ自由に行ってしまうなにか。こぼれ落ちるなにか。爆発するなにか。つまりはコントロールの不可能性。あるいは時間の不可逆性……。

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これもまた33年くらい前の、ある夏の日のこと。

父方の祖父とその内縁の妻と妹とぼくは、山中湖をおとずれていた。日帰りの小キャンプ旅行といった感じだ。湖のそばの林のなかに、おおきな切り株があった。それとも木製のテーブルセットのようなものだったかもしれない。その断面だか、表面だかをなにかの虫がゆっくりとあるいていた。ぼくは麦わら帽をかぶり、緑色のプラスチックの虫かごを持って、いかにも虫捕りをしそうな子どものビジュアルだったが、どうしてもその虫にさわることができなかった。なんの虫だったのだろう。たぶん、ゴマダラカミキリとかナナフシとか、そういう動きのおそい虫だったとおもう。あれ?カナブンかな。ぼくは小学校に上がるころにはすっかり昆虫博士みたいになって虫を捕りまくっていたから、きっとそれ以前、つまりは幼稚園のころのことだとそこから推測できるわけだ。とにかくぼくはどうにか虫にさわることなしに、虫かごのなかにその虫を入れたかった。でもどうやってもうまくいかない。ぜんぜんおもうようには動いてくれないのだ。虫というやつは。いつでも。

そのとき、そのじれったい様子を見かねたのか、通りすがりの女のひとがさっと虫をつかまえて、いともたやすくぼくの虫かごのなかに入れてくれた。たぶん20代のカップルだったとおもう。遠ざかっていく若い男女の後ろ姿がいまでも目に焼きついているから。

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それはぼくにとって救済のイメージである。

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困っているときには聖母マリアがあらわれて
かごのなかに虫を入れてくれる
Don’t let it be

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ぼくはあのとき、ちゃんと「ありがとう」をいったのだろうか?