水分は残しすぎても、飛ばしすぎてもいけない

この夏(というか厳密にいえばまだ夏とはいえないとおもうのだが)、わたしはすでに7本の「ガリガリ君」をたべた。新記録を更新しているのではないだろうか。いま現在、夜の9時36分、わたしの部屋の温度計は31度を示している。つまり、とても暑い。

わたしの借りている古い部屋の台所の換気扇は、おそらく部屋と同じくらいに古く、一定の気温以上になると、ぽたぽたと茶色い油が滴り落ちてきてしまうタイプのものである。実家にいたとき、母親がよくそのように換気扇からにじみ出てきてしまう油を、キッチンペーパーで拭いていた光景をおもいだす。それとまったくおなじことをいまではわたしもやっているというわけなのだ。だが換気扇の油が滴り落ちてくる6月が、果たしてこれまでにあっただろうか? よくおもいだせない。 

つまり、とても、暑い。

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たとえば、料理というのは、つきつめていえば、素材が内包する水分量の意図的なコントロールである。それぞれの素材を、ある適切な水分量にさまざまな方法で変化させ、たべやすいように変えること。あるいは、よりおいしく感じられるように調整すること。調え、整えること。つまり、調理である。

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わたしはこの部屋に引っ越してきてからの10年間、シンクの排水口には青いポリエチレンの水切りネットを使用してきた。

今年、わたしは、はじめて、白い不織布のものに切り替えた。

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わたしはほぼまいにちのように台所に立って料理をするのだが、忙しいと、どうしても台所まわりの掃除を後回しにしてしまう。

不織布のものは、青いポリエチレンの水切りネットにくらべて、とても詰まりやすい。それは網の目がより細かいからなのだ。

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だから食器を洗うたびに、シンクに、排水されない水がたびたびあふれかえることになった。掃除をサボっている証拠である。だからそれはわたし自身の落ち度であるのであって、そのことはよくわかっているつもりだ。シンクの7割ほどの高さまで水が貯まることだってある。シンクはそのような水の重さに耐えられるものなのだろうか、と毎度のごとくおもう。わたしはイライラして、菜箸のおしり側を排水口に突き刺して、どうにか排水を促す。そのとき不織布はかならずといっていいほど破れてしまうのだ。そのおかげで排水されはするものの、もし破れてしまうのであれば、そもそもお金を出してそんなものを購入する必要などないのではないか、とわたしはおもう。わたしは日々そのような苦悩のサイクルにいるのだが、まあそんなことはどうでもいいことだ。

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シンクのなかであふれるかえる水は、いつも、福島第一原発の汚染水のことをおもいださせた。どれだけ、その水のコントロールが大変なのだろうか。そのことをかんがえると、わたしはじぶんの部屋の台所で途方に暮れてしまう。ちいさな部屋の台所の水でさえ、わたしにとってはコントロールすることが非常にむずかしいからだ。

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南極大陸の氷は、年に1590億トン溶けているらしい。あと数百年もすると完全に消失する計算であるとNASAは発表している。南極の氷が溶ければ海面はおのずと上昇するだろう。わたしたち人類は、地球上の氷の量と、海水の量、つまりは水分量の絶妙なバランスによってどうにか生き長らえることができていたのだ、ということが、そのとき、きっと、はっきりするにちがいない。

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フライパンのトマトソースの水分量を厳密に調整しながら、わたしはおもう。水分は残しすぎても、飛ばしすぎてもいけないのだ。