こちらの青年にラージを

きみが天国だとおもっている場所。そこにはもうなにもないんだよ。なにもないというか、天国的なものはなにもない。むかし天国があった場所。そこにはいま吉野家があります。吉野家USAがあります。

あたしはその吉野家のバイトだった。あたしにとって8872人目のお客さんがジョン・F・ケネディの幽霊で、8873人目がリー・ハーヴェイ・オズワルドの幽霊だった。

「わたしのせいで……申しわけない」とジョン・F・ケネディの幽霊がいった。
「いえ、いいんです。大統領閣下」とリー・ハーヴェイ・オズワルドの幽霊がいった。
「ここはわたしが奢らせてもらおう」
「ありがとうございます、大統領閣下。卵をつけても?」
「もちろんさ」
「ありがとうございます、大統領閣下」
「きみ、こちらの青年にビーフボウルと生卵を」
「申しわけありません。カリフォルニアの州法に準じて、当店では生卵をお出ししていないんです」とあたしはいった。
「それは残念。では、ビーフボウルのレギュラーをわたしに。それからこちらの青年にラージを」とジョン・F・ケネディの幽霊はいった。

店長の目を盗んで、あたしはちょくちょくバックヤードの裏口の扉の向こうがわに行く。そこにはちょっとした公園のような場所が広がっていて、あたしはよくそこでたばこを吸う。空が紫色なので、口には出さないけどあたしはそこをひそかに【パープルパーク】って呼んでる。ただひとつきりしかない吸いがら入れはもう何年もまえからいっぱいで、ここではそういうのをだれも片づけるひとがいないのだ。ほんとはこういうのってだれかがちゃんと片づけないといけないんだけどな。あたしはそうおもうけど、あたしには仕事があるし、という感じでずっとほったらかしにしているから、ひとのことはいえないのだってことはよくわかっているつもりだ。

吸いがら入れはむすうのホーミングミサイルを発射した瞬間に時を止めたみたいに山盛り。それに煙。これまでにここで吸われた全たばこの煙がどこにも消えることなく漂ったままみたいなのだ。ぜひとも換気扇をつけるべきだとあたしはおもう。「これじゃあまるで21世紀の北京だよ」と最近、向こうの未来に行ってきた店長はいう。「ヤバいよPM2.5」。

扉をあけて【パープルパーク】に行くとき、いつも一瞬めまいがしたみたいになる。暗いところから急に明るいところに出たときみたいな。だから最近はあらかじめ目を閉じてあたしは向こうがわに行く。それだと逆効果みたいにおもえるかもしれないけれど、そうすればめまいみたいなことが起こらないのはたしかなのだ。

8872と8873が店を出て行ったあとで、「さっきの、あれ、アメリカの大統領だぜ」と店長が教えてくれた。「あの大統領は暗殺されたんだ。それでその横にいた若いやつが犯人ってことにされたんだけど、やっぱりちがうみたいだな。じぶんを殺した人間に牛丼を奢るやつなんていないだろ? しかも大盛り」。

あたしはそういうのはどうでもいいし、はやく向こうに帰りたいだけだ。客なんてただの数字だ。あたしたちは3万食の牛丼(ここではビーフボウルって呼ばないといけないんだけど)を売ると一定期間、地上に帰ることができる。はやくヒロユキに会いたい。ただそれだけなのだ。

あたしは吸いがらの山の天辺に、吸い終わったばかりのたばこを一本突き刺した。