すばやさのたね

いまとなっては、わたしは、まわりのひとたちから本を読むことが好きな人間だとおもわれているかもしれないし、じぶん自身もそのようにふる舞っている嫌いがないとはいえないのだけれど(そんなのアホみたいな話だが)、ほんとうのところ、一度たりともじぶんのことをそんな風にかんがえたことはない。えーと。どうかな。ほんのちょっとはあるかな。うん。ちょっとはあります。でも、まあ、ほとんどそうおもってないし、たぶん、わたしはギャンブラーで、ゲーマーである。属性としてそれがいちばんしっくりくる感じ。

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ぼくはブログにそのように書く。そのブログのなかの「わたし」は、むろんのこと、ぼく自身ではない。それは架空の存在であり、とりあえず、ぼくによって創造された架空の視座である。ぼくが「わたし」を通して語りたいのは、主に現代における「倫理」についてである。平たくいえば、正しいことと正しくないことの線引きである。あるいは線引きのようなものである。だが「わたし」は結局のところ、ほとんどなにも線引きなどできていないようにもおもえる。なんか、なにに対してもぼわっとしている感じ。

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むしろ本を読むことはむかしから一貫してずっと苦手だ。わたしはまったくじぶん勝手にしか読むことができないし、いまでも、どうやって本を読んだらいいのか、じつのところよくわからない。しかもほとんどの本は冒頭の一行しか読むことができない。一行目を読んで、いったいこれはなんなのだろうとおもう。

それらは、これから本を読もうとおもっているひとに向けて書かれている。そのことでわたしはまず躓いてしまう。わたしは、本というものはメディアのひとつだとおもうのだけれど、本そのものを欲望しているひとに向けて書かれている、という風にしかおもえないことが多いのだ。個人的には「本はメディアである」という以上の思い入れを、わたしは本というメディウムに対して抱いてはいるけれど、そのことを前提とされたくはないのだ。

だからものすごく努力をしてわたしは本を読んでいるのである。のである、とか断言されても困るとおもうけれど、そうなのです。とにかく苦手なことをがんばってやっている感じ。

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ぼくは10代のころから、ギャンブルというものがどういう装置なのか、ということについてずっとかんがえてきた。たぶんドストエフスキーもそうだったんじゃないかなとおもう。かれはヨーロッパへの旅行中にギャンブルで全財産をうしない、ロシアに帰れなくなったほどの極度のギャンブル中毒であった。かれのいくつかの作品は、借金の担保として執筆されたものである。

なぜひとはギャンブルをするのだろうか。

ぼくのかんがえでは、たとえば、それはひとことでいえば、スロットマシンの前では万人が平等であるからだ、というようなことになる。つまりギャンブルとは社会的な不平等を是正するための仕組みである。あるいは緩和するためのささやかな試みである。試行回数をより重ねられるという意味では、そこでもやはり金持ちのほうがいささか有利な局面は現実的にはあるにちがいない。だが理念的には、コインをベットし、レバーを叩き、回転するリールを止めるためのボタンを押すことさえできれば、ある一定の確率でだれにも等しくボーナスのフラグが立つことに代りはない。平等、とぼくがいうのはその意味においてだ。結果の平等ではなく機械の平等、というやつだ。いや機会の平等だ。

そしてギャンブルをするひとたちの多くは、平等の条件さえ与えられたならば、じぶんは勝てる側に回れるはずだ、とかんがえているひとたちである。これは、じぶんという存在は、この社会において正当な評価を受けていない、という気分の裏返しでもあるだろう。そしてみんながそうかんがえている限りにおいて、ギャンブルという場が成立している。

だがもちろん、ちょっとかんがえればすぐにわかることだが、ギャンブルによって社会に平等性が実現されるということはありえない。かならず胴元が儲かるようになっているし、それどころか、おそらく、ある一定の富をギャンブルというフィルターを通過させる前と後では、後者のほうがより富の格差を招いているにちがいない。だからこそ、ギャンブルというものが存在しているとしかいいようがないのだけれど。

ぼくたちは、ギャンブルの場において、プレイヤー同士が敵対することを求められている。かぎられた数のイス取りゲームをしているようなものだからだ。ぼくたちはほんとうは全員で一致団結してすべてのイスをひっくり返し、胴元の金庫をこそ破るべきなのだ。だが決してそんなことはしない。

それは、統治の、ひとつの洗練された形態である。

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わたしはそもそも物語にあまり興味がない。結局のところ、幸福とはひとが生きていることで、不幸とはひとが死ぬことだ。物語とはそれを教えるための装置である。統治と装置で韻を踏んでいるのである。だから人間には物語が必要、というか物語こそが人間を人間たらしめているということなのだが、ほんとうにすべての物語をひとことでまとめると「ひとは生まれて、そして、やがて死ぬ」ということになる。

ひとは生まれて、そして、やがて死ぬ。だから、なんなのか?

そこに続くことばこそが重要なのだけれど、悲劇とは、わたしたちの物語には外部があるということを知らしめられる経験である、ということなのだ。端的にいえば、「わたしたちの物語」をけっして理解しないものがいる。物語は、わたしたちのコミュニケーションを根本から規定している。だから、物語の外側とはけっしてコミュニケートできない。哀しみとはそのことだ。

たとえば、わたしたちは蚊を殺す。なぜ殺すのか。刺されたら痒いからである。そんなことで生きものを殺してもいいのだろうか。でも、ぱちんと殺す。 わたしたちはそのような物語のなかにいる。そう、ある物語の外には、またべつの物語が存在している。

有史以来、人類が経験してきたあらゆる悲劇のことをかんがえてみればいい。ヒューマニズムという物語を(それこそが崇高なものだが)、ちょっと脇においてみれば(けっして脇におけるようなものではないことはいうまでもないが)、「あるとき、ある場所で、ひとが死んだ」ということに過ぎない。わたしは、このことこそが希望だとおもう(のだが、この話はまたべつの機会にゆずることにしよう)。

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映画でもドラマでも小説でもなんでもいいが、わたしが期待しているのは「つぎのシーンでなんの脈絡もなく急に爆弾が落ちてきてみんな死ぬ」というようなことだ。女の子が困っている。そこに主人公の男の子が直感をたよりに駆けつける。もちろん雨のなかを走って。そういうとき、わたしは主人公がマンホールに落ちたり、車に轢かれたり、急にお腹が痛くなってトイレを探したりしてほしいのだ。つまり、要約するとこういうことになる。フィクションの作中人物たちは、あまりにも物語に奉仕させられすぎ。

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きっと、本が好きで、本を読むのが得意なひとたちというのは、わたしなんかとはもっと違ったタイプのひとたちであろうとわたしは想像する。この世にはそういうひとびとが一定数存在するのだ。

たとえば、高校のとき、まいにち車両がいっしょになる女の子がいた。かの女が毎朝のように読んでいたのは、山岡荘八の『徳川家康』であった。きっとかの女は『大菩薩峠』だって読破したにちがいない。つまりは、そういうことだ。あるいは、大江健三郎のつぎのようなエピソード。

 カードをつける習慣は子供のころできた。生まれ育った四国の村に図書館はなく、公民館に村の人が寄付した本が集められていた。1年間、ほぼ毎日通いそこの本は全部読んだ。家に帰り「お母さん、ぼくは公民館の本をぜんぶ読んだ」と言ったところ公民館に連れていかれた。
 適当に取り出した1冊の最初のページを母が読み、あとを続けるよう促された。「最初の1冊はたまたま覚えていたが、その次、わからない。はい次、わからない。すると、あなたは何のために本を読むのか、忘れるために読むのかと言われた」

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わたしの読書の基本的なスタンスは、おそらくは「読書好き」に対する反発心だったろうとおもう。そもそものはじめにおいては。本が好きな人間よりも、たくさんの本をいろいろ読んでやろう、というようなひねくれた気概。野心。ありきたりな思春期の心の活動。

というようなわけなので、もし、もう本を読むなといわれたら、わたしはおそらく死ぬまで本を読まなくてもぜんぜん平気だ。せいせいするとおもう。なのになぜけっこうたくさんの本を読んでいるのかというと、わたしにはそれ以外にできることがないからである。きっと、みんなびっくりするだろうとおもう。わたしにできることがどれだけ少ないのかを知ったら。

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わたしにとっての(絵本以降の)読書というものの、ほんとうの初期に刻み込まれている経験は、おそらく「ゲームブック」だ。「ゲームブック」というのは文章の途中に選択肢があり、それにしたがってそれぞれ指定されたページに飛ぶことによってまったくべつの展開がなされ、選択次第で複数の結末が存在するような小説(のようなもの)のことだ。「ゲームブック」はいまでは「美少女ゲーム」と呼ばれるものに継承されているとかんがえてよいだろう。プレイヤーの選択次第で、どの女の子を本命の恋人にできるかが決まる。というようなゲームである。(それほどよく知っているわけではないけれど)。選択による結末は、トゥルーエンド、バッドエンドなどと呼ばれる。「すべての女の子を攻略したあとで真のエンディングがおとずれる!」みたいなやつだ。

だからわたしはじぶんでこのような文章を書くときにでさえ、いまでもその経験が深く刷り込まれているのを感じる。わたしが文章を書くのが遅いのは、ある一文に対して、複数の文を同時に進行したいという欲望があるからで、ちょっとかんがえればわかるのだけれど、そうすると一文がねずみ算式に長くなってしまう。だからおおむね破綻してしまうことになる。一文ごとに並行世界が増殖してゆくようなものだからだ。などと分析している場合ではないのだが、そのような記述を可能にする文章の形式を、わたしはまず発明しなければならない。そのような形式をテーマにした物語ではなく、そのような物語を内包した形式そのものを。そしてそれは「大人になること」と関係がある、というのがわたしの見立てだ。

とここまで書くと、これはじつにじぶんの人生そのものだ、ということに気がつかないわけにはいかない。ものすごく正直に書くならば、わたしは選択肢にしたがって選択した結末には興味がない、とうことになる。わたし自身に興味があるのは、その選択肢が派生してゆくダイナミズムそのものなのだろう。つまり、わたしはトゥルーエンドにもバッドエンドにも興味がない。わたしはもしかしたら選択するということを馬鹿馬鹿しいとおもっているのかもしれない。つまりこれを問の形に直せば、「果たして人間には自由意志があるのか?」ということになるだろう。

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きっと、みんなびっくりするだろうとおもう。わたしにできることがどれだけ少ないのかを知ったら。たとえば、わたしは、いままでひとりきりで「スターバックス」に入ったことがない。たぶん死ぬまでひとりで行くことはないとおもう。なぜなら、買い方がよくわからないからである。わたしはひとりのときには「ベローチェ」にしか行かない。それからわたしがもう何年も同じ古い携帯電話を使っているのも、似たような理由による。機種変更の仕方がよくわからないからである。ラーメン屋で、わたしはぜったいに胡椒やらにんにくやらなんやらを入れてじぶん好みの味にアレンジしたりしない。牛丼屋で紅しょうがをのせない。わたしは世界をそっとそのままにしておきたい。わたしがそこにいなかった場合と同じように。

もちろん、わたしはいますぐ近くの「スターバックス」に行って、ふつうにコーヒーを買うことができないわけじゃない。機種変だってできる(実際、最近しましたよ)。そんなことはだれだってしていることだ。わたしはただ、そういう選択をしない人間の現実を生きるということをしている、ということなのだ。

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きっと、みんなびっくりするだろうとおもう。わたしにできることがどれだけ少ないのかを知ったら。もしかしたら、あなたにはよくわからないかもしれない。たぶん、わたしはゲーマーで、わたしの人生というのは「低レベルゾーマ撃破」に挑戦しているみたいなものなのだ。そしてなぜひとびとは簡単に「スターバックス」でコーヒーを買うようになってしまうのか。じぶんをどれくらい流行化するか。ひとが自らを流行化しなければ生きられないとしたら、その結末は、ほとんどすべて同じになってしまうのではないのか。

わたしが回避したいのはそのことだ。だから必要なのは「すばやさのたね」……なのかな?