遺書、あるいは本を読むということについて

ぼくはある日、左腕にしこりのようなものをみつける。これは癌だ。またの名を悪性新生物。ぼくはもう死ぬんだ。と瞬間的にぼくはおもう。おじいちゃんも、父親も癌だったけど、こんなに早いのかよ! はっきりいって、なにもいえない。なんもいえねー。

(ほぼフィクションです。念のため)

じつにくだらない、なんの意味もない人生だった。なにもできなかったし、なにもしなかった。空っぽだった。いや、空っぽよりもっとたちの悪いなにかだった。空っぽのなかで、空っぽがベルトコンベア式に再生産されていて、それをせっせと世界にむけて出荷しているかのようだった。それが世界に対する誠実さなのだと勘ちがいをしていたのだ。

でも、それにしても、夜空の星がきれい。いつもよりも、ずっと。月もきれい。街の灯り。ひかり。それすらもきれいだ。もし双子の女の子が生まれていたら、あかりとひかりという名前にしたかった。とぼくはおもう。銀河の最果てのような、冬のベランダで。かの女たちが、あらゆる暗闇に対抗できるように。

つぎの日、貯金をぜんぶ下ろしてぼくは食べたいだけ焼き肉をたべる。いちにちたって、しこりはほんの少しだけおおきくなったように感じられる。それは気のせいかもしれないけれど、そうではないかもしれない。すべての微細な事象をぼくはもう終わりへと引きつけずにはいない。これはいよいよもうまちがいがない。うたがいようもない。自信が確信に変わった。これが全身に発生して、そのすべてが地雷が爆発するときのように爆発するイメージをぼくは頭から拭い去れない。

……けっこうこわい。

遺書を書くためのノートを伊東屋に買いにいく。文房具屋の静寂がぼくは好きだ。人類が手に入れた最良の真摯。という感じがする。肘がこわばっている感じだ。

それからぼくはまた焼き肉をたべる。もう焼き肉は飽きる。そのつぎの日は寿司をたべる。うなぎをたべる。とんかつをたべる。もうそれくらいしかたべたいものが思いうかばない。そのようにして飽食の一週間がすぎる。遺書はおなかがいっぱいで、なかなか書く気が起きない。

ほんとうはこれはガングリオンではないのか。もしそうだとしたら、生まれてからはじめてできたよ。とおもわないでもないのだけれど、もう癌と決めこんだぼくはへこたれない。でもつぎの週はおにぎりばかりたべる。慣れない贅沢によって胃がもたれて、おにぎりしかたべる気がしない。それも極めてスタンダードなやつ。そのようにしておにぎり週間がすぎる。幸い、ファミマのおにぎり100円セールだったし。ぼくはノートの表紙に「遺書」とだけ書く。あれ? こういうときって「遺言」だっけ? ……どっちでもいいか。

そのしこりのようなものは、気がついたときにはちいさくなっている。拡大期を超え、その膨張の頂点をむかえ、縮小期にはいる。そしてぼくはこのあいだUFOをみたことと、このしこりのようなものを結びつけてかんがえないわけにはいかなくなる。つい先日ぼくはベランダからオリオン座のような隊列を組んだUFOをみたのだった。

これはなんていうんだっけ? エンバーミングじゃなくて、キャトルミューティレーションでもなくて、アブダクションだ。アブダクションというのは、つまりは宇宙人によって誘拐されるということだ。

そうか! それでぼくが撮った写真は消されてしまったのだ! そしてそのときに宇宙人の手によってなにかをインプラントされたにちがいない! もしその宇宙人に手があると仮定して! そしてそれは左腕からぼくの体内にゆっくり溶けこんだ! だからしこりはちいさくなったのだ! つまりぼくは未知のなにかによってなにかを身体にインストールされたのだ! これからぼくの身体にはなんらかの変化が起きるにちがいない! そのなにかの作用で!

その変化がいったいどんなものなのかはわからない。もしかしたらぼくはこれまでのぼくという存在をおおきくかけ離れ、まったくべつの存在へと変化してしまうかもしれない。しかしそうなったときには、ぼくにはもうそのことがきっとわからないのだ。ぼくのなかの怪物がめざめるまえに、夜空の月を壊してしまうまえに、このことを書いておかなくちゃ。

ぼくは「遺書」と書かれたノートのページをめくり、ペンを握りしめる……。

 

……というようなことなのだ。わたしにとって本を読むということは。