歩く

やっと歩くことができて、わたしはほっとしているところだ。とてもよく歩けたし、気持ちよく歩けた。じぶんがまだ歩けるということがわかったし、歩くとどこかへ行けるということもわかった。ほんとうに、歩くことができてよかったとおもう。

といっても、怪我をしていたわけではないし、病気をしていたわけでもない。ましてや塔のてっぺんに幽閉されて、結果的に心を盗まれてしまうことになる世紀の大泥棒の到来を、いまかいまかと待ちわびていたわけでもないし、王家の血が流れているわけでもない。ただ単に、歩く時間がなかっただけのことである。ただ、もしかしたら、クララの歩けなさというものは、べつの形でクラリスに受け継がれていた、ということはあるかもしれない。

宮崎駿が引退会見の席で「いまは健康ということですね?」という記者への問いかけに、こう答えていた。わたしがいちばん膝をうってしまったところだ。

映画を1本作りますとよれよれになります。どんどん歩くとだいたい体調が調ってくるんですけど、この夏はものすごく暑くて。上高地行っても暑かったんですよ。僕は呪われていると思ったんですけど。まだ歩き方が足りないんです。もう少し歩けばもっと健康になると思いますが。

まさにその通りとしかいいようがない。大切なのは歩くことだ。それしかない。宮崎駿とは比べるべくもないが、わたしのように部屋に閉じこもって仕事をしている人間(人間であることには全面的に同意していただきたい。ただちに。しかも無条件で)が「歩く時間がない」というとき、その「ない」は修辞的な誇張表現では断じてない。それはただ単に「ない」のだ。

歩くことは難しい。もしあなたが学校をやめたり会社をやめたりしたら、あなたはもうその学校にも会社にも行くことはない。たぶん、おそらく、あなたが、あなたがたが、駅へと向かうのは、そこには目的があるからで、その目的というのは千差万別、というほど種類があるものではまったくない。というか、2種類しかない。休みか、仕事。そのいずれかである。

つまり歩くということは手段だ。ほとんどの場合。

その歩く、がないとき、ひとはどうなるか。歩かないのである。歩かないと、どうなるか。最終的には、人間は、歩かないと死んでしまうのだ。むしろ、歩かないから死んでしまう、といってもよい。だから地球を救うのは愛ではなく(愛は地球に巣食っている)、散歩なのだ。

ひとがその表面を歩く。そうすると地球が回る。わたしたちは巨大な玉乗りをしている。

20分ほど歩いてわたしは繁華街の古本屋へ行った。そこでたくさんの背表紙をながめた。わたしは、いまになってようやく気づいたのだが、わたしがいちばん好きなことは、おそらく、本の背表紙をながめることなのだ。それに比べれば、本をじっさいに読むことなんて、ほとんど嫌いといってしまっても構わないくらいだ。つまり、それくらい、本の背表紙をながめることが好きなわけだ。わたしはおそらく図書館で働くべきだったのだ。

だから、わたしは本なんて一冊も買わなかった。それからだらだらと1時間ほど街なかを散歩して、地球を回した。そしてスーパーで買いものをして部屋へと帰る。ドラマのなかで赤ワインをのむ母娘といっしょに、北海道の白ワインをのむ。