Goodbye Happiness

その映像を、もう何回みているかわからない。

あらゆる医療行為と、あらゆる薬というものを嫌悪しているわたしにとっては、生きるために必要なものなのだろう。きっと。たぶん、それは精神安定剤のようなものだ。それくらいは許して欲しいところだ。なにもヘロインを皮下注射しているわけではないのだから。

きのう、わたしはねむることができなかった。そういう日は年に20日くらいはある。あとはだいたいすんなりとねむることができるのだから、ほとんど健康といってよいし、ほとんどバカで、しめたものだ、といってもよい。ねむれない。とおもうことほど辛いことは、けっこう、あんまりないとおもうからだ。

「ねむることができないときに読む本」を読む気にもならないとき、わたしはだいたいはテレビをつける。ほとんどなにも期待してなんかはいない。そういう時間はなんだか通販番組ばっかりだ。わたしはけっこう真剣に通販番組をみる。でも実際に買う気になったことはいちどもない。

わたしはリモコンでテレビに接続しているハードディスクにアクセスする。いまではねながら何百時間もの録画した映像をリモコンひとつで再生できるのだ。そんなことはキリストにだってできまい。

むかしNHKでやった「宇多田ヒカル~今のわたし~」という番組をわたしは再生した。あの日以降は、はじめてのことだった。

そこに映っているかの女は、まだそのことを知らない。そのことは、なんだか間違っているように感じられた。そして、ほんとうに辛いことだった。わたしたちだけがそのことを知っていて、かの女はそのことをまだ知らない。その圧倒的な不公平さは、かの女の、あらゆることを見通してしまうような聡明さには、じつに似合わないものだった。こっちで罪悪感すら感じてしまう。

それでも、なにか未来から来たひとみたいに、かの女は、その時点で、もうすべてを知っているみたいにも、わたしにはおもえるのだった。

わたしは「Goodbye Happiness」という曲が好きで、かの女じしんが監督をしたその曲のPVをみるとかならず泣いてしまうので、もう何年もその曲を聴かないようにしてきた。その曲を聴くとかならずPVをみたくなってしまうからだ。そして泣いてしまう。そこにはかの女の持っているありとあらゆるものが詰まっているとわたしはおもう。わたしは「Goodbye Happiness」を、YouTubeをみながらギターを弾いて6回うたった。

So goodbye loneliness
恋の歌 口ずさんで
あなたの瞳に映る私は笑っているわ
So goodbye happiness
何も知らずにはしゃいでた
あの頃へはもう戻れないね
それでもいいの Love me

どういう風にいっていいのかわからないのだけれど、その部屋はまるでキューブリックの映画の宇宙船のなかみたいだ。かの女が遠くへ行きつつあることをわたしは感じる。そしてもう二度と戻っては来ないのだ。よくわからないのだけれど、その宇宙船は想定していた軌道を外れてしまった。わたしたちはかの女にとって「Happiness」なのだ、と直感的におもう。かの女はそれにさよならをしている。

http://www.youtube.com/watch?v=cfpX8lkaSdk