『リリイ・シュシュのすべて』

『リリイ・シュシュのすべて』をDVDで観た。以前、CSの日本映画専門チャンネルかなにかで24時間岩井俊二特集みたいなのをやっていて、『リリイ・シュシュのすべて』は途中からちょっとだけ観たのだが、いつかちゃんと頭から観ようというつもりになったので、そのときはいつかちゃんと観るときのためにしっかりと観ることを避け、というよりも途中から観る映画になどきっちり集中できるはずもなく、もちろん話の筋もよくわからないので、結局は最後まで観ることすらしなかったのだったと思う。そのときの大まかな印象は、「画面上に頻繁にチャット風の文字が出てくる映画」というようなもので、それ以外の印象はほとんど残っていなかった。だから今日はじめてこの映画を観たのだといってもいい。さらにさかのぼるなら、劇場公開時に「リリイ・シュシュ」という名前がぼくにもたらしたのは、現在とはかなりかけ離れた印象で、それは「小林武史」という名前とセットになって、その周辺には決して近づきたくない、という感情を催させた。ぼくは岩井俊二はたぶん嫌いではないはずなので、「リリイ・シュシュ」というファンシーな名前(ぼくにとってはそれはきわめてファンシーな、もっといえば多少恥ずかしいような響きであった)と、それが「小林武史プロデュース」であるという理由によって、『リリイ・シュシュのすべて』という映画全体に対して良い印象を抱いておらず、映画それ自体にはひとかけらも罪はないはずなのだが、「たぶん一生観ることはないのだろうな」と漠然と思っていたのだった。いや思ってすらいなかっただろう。それは「どうでもいいもの」として迅速に分類され整理され、かつ忘れられた。
ならばなぜ『リリイ・シュシュのすべて』などといった、振り返るにはいささか早すぎる、半端に過去のものとなりつつあるような映画を、ついさっき寝かしつけたばかりの赤ん坊をなんとはなしに揺り起こすような素振りで、どうして今さらながら観る気になったのかといえば、それは『リリイ・シュシュのすべて』という映画でカリスマ的女性ヴォーカリストを演じるところの彼女(といってもついに映画は彼女の鮮明な姿を捉えずに終わるのだが)が、こっちはファンシーでも気恥ずかしくもなく、フランス語の挨拶のような、どこかの国の民族衣装のような、どのように発音すればその本当のところのものとなるのかわからないような、「salyu」という名前でいまもなお活動しているアーティストであり、端的にその名が「七尾旅人」のwebサイト内の「胸をうたれた星」なるコンテンツに記載されていたからだった。といってもそのサイトを見たのはつい最近であるというわけでもなく、だから本当のことをいえば、近頃、駅前にできたビデオレンタルの有名チェーン店において、「DVDを借りるときには一度に3枚」という半ば定着しつつある習慣を惰性的にではあれ守るために店内を巡回した挙げ句、「そういえば」というほどの面持ちで選び出したというまでの話だ。
結論からいえば、ぼくはこの映画がすごく好きだ。あるシーンで、身体が熱くなり、皮膚が裏返ってしまうかのような感覚を持った。そしてこの感覚は、ぼくが映画を観る際における、ほとんど最大級の感動だといっていい。おもしろいと思ったり、すごいなあと思ったり、いい映画だなと思ったりする映画はたくさんあるし、ぼくは映画を観てしょっちゅう泣いたりしているけれど、この「皮膚が裏返っちゃうような感じ」のする映画は滅多にない。そのシーン以降はほとんど涙で目がにじんで、画面上に出現する白抜きの文字を読み取ることが難しくなるほどだった。あれはなんていう曲だろうな。とにかく曲がかかる瞬間。だからこの映画はサウンドトラックの逆で、ある一枚のCDのビジュアルトラックである、という言い方もでき、映画としては批判されることがあるかもしれない。映像が音楽に従属してしまっている、というような言い方で。だからいってみればこれはいささか長いプロモーション・ビデオであり、そのように見る限りではなかなか良くできているとは思うのだが……というような言い方がいかにもされそうな映画だという気はする。でもそんなことはどうだってよく、その一瞬は奇蹟のようなもので、映画という枠を超えた出来事として刻み込まれてしまった者としては、そのような稀有な出来事をもたらした媒体がたまたま映画であったというだけの話で、映画の出来不出来や優劣なんかとは無縁の問題なのである。