古本屋について

もし、いつの日か、ぼくが大人になったとする。なれるかどうかわかんないけど。そして、じぶんの手でお金を稼ぐことができるようになったとする。もちろん、じぶんの手でお金を稼ぐことができるようになるなんて、いま現在、この17歳の時点ではまったく想像もつかないし、ほとんど不可能のようにさえおもえるのだけれど、もし、そうすることができたとしたらの話だ。そのときには、ぼくは、きちんと、定価で、古本屋ではない本屋さんで、まだ、だれもそのページをめくってはいない、ぴかぴかの新品の本を買うことにしよう。

わたしたちはその当時、日常的に古本屋に通っていた。わたしの通っていた高校は立川にあった。立川周辺にはあまり古本屋はなかったから、学校帰りに吉祥寺にいったり、高円寺にいったり、ほんとうにときどき、神田にいったりもしていたとおもう。もちろん、最寄り駅の福生にもいくつかの古本屋があって、毎日のようにいずれかの古本屋を巡回していたのだった。

いまでもそうなのだが、わたしは極度の引っ込み思案で、どうしても「常連」というカテゴリーに入ることはできなかったけれど、ときどき、狭い古本屋の店内で、そのほとんどが老齢の店主たちと短い会話を交わすのがとても好きだった。そして古い本の発する独特の匂い。わたしにとって、あれほど安心する匂いはまたとない。

時はまだ「ブックオフ」前夜である。

どうかんがえてもみんなでいっしょにいちばん訪れていたのは、中神駅のそばの線路沿いにある「中神書林」だったとおもう(2013年現在、東中神のくじらロード内に移転したようだ)。わたしたちは定期券の力を行使し、中神の駅で途中下車して古本屋に行き、そのあと近くのたこ焼き屋でみんなでたこ焼きをたべた。どうしてひとりでたこ焼き屋をやっているのかまったく理解できないくらいに美しい女性が、わたしたちにたこ焼きを焼いてくれた。わたしたちは店の前にある自動販売機で500mlのコーラを買ってみんなでそれをまわし飲んだ。わたしたちはだいたいお昼ごはんをたべていなかった。親からもらったお昼代で本を買っていたからだ。わたしはその店でよく「スピリッツ」を読んでいた。『鉄コン筋クリート』が連載されていた頃のことだ。

あれから20年がたった。まったく嘘みたいな話だけれど。

わたしはじぶん自身が大人になったといえるかどうかはよくわからないのだが、すくなくともじぶんの手でお金を稼ぐことができるようにはなったのだった。おどろくべきことに。そして、わたしはほとんど古本を買うことがなくなった。

わたしはいまでは、なぜ17歳のわたしが、大人になったら古本屋ではない本屋で本を買うことにしようとおもったのかよくわかる。それはひとことでいえばこういうことなのだ。

古本屋とは、富の再分配の、すぐれた一機能である。

わたしたちはその当時、古本屋のおかげでたくさんの本を読むことができた。それはつまりあたらしい本を買って、ただちに売ってくれるひとたちがいたからだ。だからその恩恵を多大に被ったわたしたちは、その恩返しをしなければいけないのである。