『スイミング・プール』


フランソワ・オゾン監督の『スイミング・プール』って映画を昨日今日と二回観たんですが、これがもうめちゃくちゃ怖かったんです。こわ。と感じたのは一瞬のことに過ぎないのですが、そこからじわっと鳥肌が立つっていうか背筋が寒くなるっていうか戦慄が走るって感じで、エンドロールの最中に映画全体が不気味なものに変化してしまう、とでもいうような。ああ。いま走ってるな。ぼくの背中を秒速10センチの戦慄が。というような。って別に10センチ、の根拠はないのですが、いや『秒速10センチの越冬』という小説があったなあそういえば、ぐらいの理由があるといえばあるんですが、秒速10センチってしかもそんなに速くないよね。戦慄としては。まあとにもかくにも、この10年でいちばんの怖さかもしれないですよ、これ。10年どころの話じゃないかもしれない。じゃあなんでそんなに怖いのかね。ってのをちょっと考えてみたのです。
なんかぜんぜんそんなつもりで観てなかったんですよ。なんの予備知識もなかったんで、謎解きとかそんなつもりでも観てなかったし、でもなんだかいろんな謎が仕掛けられているような感じな映画でした。主人公のサラ・モートンという女性はミステリー作家なんですが、彼女は映画の中で小説を書いているわけです。編集者の別荘みたいなとこにいって執筆している。そしてその小説(もしくは小説のアイディア)が映像化されて、映画に紛れ込んでいるのです。だからなにが本当に起こったことで、なにが起こったことじゃないのか、そのへんの細かいところがよくわからなかったな一回観ただけじゃ。たぶん厳密に撮られているのだろうけども。という推測のもとに、怖くて嫌だったんだけどもう一回観たんですね。で、やっぱり怖かったです。これ、どうして怖いのかな、って不思議なんですよね。別にホラー映画とか、お化けとか幽霊とか、そういうような怖さじゃないんです。普通の意味ではそんなに怖いって感じじゃない。しかももしかしたら怖がってるのはぼくだけかもしれない。と思っていっしょに観てたグリコさんには「怖かった」ってことは一回目観たあとではいわなかったんですよ。すぐ寝ちゃったし。で今日になってもう一回観てみようかってなったときに、やっぱすごく怖かったからもう観たくない、ってぼくはいったんですね。あの最後のところが怖くって、一日たったいまでもなんか怖い、と。こどもみたいなことを。そうしたらグリコさんも怖かったっていうんです。で、怖いと思ったのは自分だけかと思ったっていうんですよ。これはぼくらがめちゃくちゃ気が合っていてもう見るものすべてなんでもかんでも同じように感じるのである。とかいう話じゃないですよ。断じて。これサンプルが少なすぎるんであれなんですけど、思いっきり大胆に仮説を立ててみると、この映画の怖さっていうのは、この「怖いと思ったのは自分だけかと思った」っていうひとことに要約されるような気がするんです。つまりそれは「一般的な、共通理解の範囲内の恐怖」という範疇にはおさまらない種類の恐怖ってことだと思うんですけどね。本当に怖いことって隠されてると思うんですよね。
ではどういう風に隠されているのか?それは「怖い」ってのはこういうことですよ、ってのをある程度作り上げて、みんなで共有して、表立たせて、「本当に怖いこと」ってのを覆い隠して、そこから目をそらさせている。そんな気がするんですね。というかですね、怖いって誰かにいっちゃえばもうそれは怖くなくなる、っていうのありますよね。だからいってみればホラー映画ってすごく倫理的で教育的なものなのかもしれないなあと思うんです。きっと価値観が多様化し錯綜してくると、時代はホラー映画を求めるのだと思います。なんて適当にいってますけど最近なんか流行ってるんでしょ。ホラーが。日本発のホラー。みたいなのが。あー怖かった。うん怖かったねえ。とみんなで言い合って、きゃあ。とかいっちゃって手なんか握っちゃったりして、その共通理解や身体的なコミュニケーションへの動機づけは恐怖とはちょうど正反対のものですよね。怖いってのはつまるところ、ひとりだ、ってことですからね。ぼくたちは恐怖さえも仲立ちにして、そこに共通の価値観を見いだそうとする。打ち立てようと欲する。でもこの「スイミング・プール」の怖さは、もうちょっと複雑なものです。複雑だから単純なものよりも高級だ。という単純な話じゃないですよ。それはただ単に多く手順を踏む、ということに過ぎないのですから。あるいはですね、もっと根源的な怖さ、といったらいいかな。それらをまとめてひとことでいうと「現実が崩壊してしまう怖さ」だと思うのです。
ぼくたちはふだん自同律というものにしたがっています。A=Aというやつですね。まああんまり難しくなっても困るので簡単にいうと、ぼくたちはある文法に則って世界を分節化しているわけです。極端な例を挙げれば、ぼくたちは、まばたき前の世界と、まばたき後の世界を同一のものと見なすわけです。経験的に。って当たり前ですけど。で、たとえば映画を観るとき、ぼくたちはそれぞれの登場人物をアイデンティファイしようとしますよね。こいつは証券会社に勤めていて独身、高級マンションに住んでいる、とか、こいつは小説家、とか、変な眼鏡のやつ、とか、甲高い声のやつだなあ耳障り、とか、ブロンドの女の子ですげえ好みしかも巨乳、だとか、背が高い・低いとか、痩せてる・太ってるとか、マイケル・J・フォックスだ、とか、マイケル・J・フォックスじゃない、とかいう風に区別します。全員がマイケル・J・フォックスだったらこれは大変なことになります。もうなにがなんだか。という感じになります。たぶん。まあふつうはスクリーン上の人物を混同したりしないで、その中の主人公らしき人間に自然と感情移入し、ストーリーを追うことができる。それが映画を観ることだ。とぼくたちは考えているわけです。というか考えるまでもないというか。そして映画を作る側もそのように考えているので、すべての役をマイケル・J・フォックスにやらせる。なんて無茶なことはしないわけですね。それはなぜかというと、マイケル・J・フォックスが大変で疲れちゃうから。ではなくてそれが映画の文法に違反することだからです。もちろん例外はありますし、二役を利用したトリックが使われる、なんてこともあろうかと思いますが、基本的には映画の文法はそれを禁じ、なぜならそれは自同律に反するからなのです。なのです、っていうか、そうなんじゃないかなと思うんですね。現実がそうであるように、映画の世界においてもA=Aという原則はつねに前提されている、と。
そこにさまざまな問題があるにせよ、だいたいにおいて、そういう暗黙の映画文法。みたいなものにしたがって映画は作られているし、ぼくたちは映画を観ています。でも白状しますが、ぼくはこの能力が低いのです。ぼくは誰が誰だかすぐにわからなくなってしまう。現実では一度会った人はおろか、街で一度見かけたことがある。ということまですぐに判別できるのですが、映画となるとこれがどうも話が別みたいなのです。だからもう見終わってもぜんぜん意味がわからなかったりします。それはともかくとして、突き詰めていえば、映画という形式そのものが、ある分節化の仕方を、構造的に、観るものに対して要請するものであるわけです。そもそものはじめから。だって一秒間に24コマの静止画をぼくたちは勝手に映画に変換するわけですから。というような意味において、映画とはいつでもひとつの詐術であり得るのだし、ナチスがどのように映画を利用し、そこで映画がどのような役割を果たしたのか。ということを想起すればわかるように、それは容易にファシズムを組織することにもなるのである。あれ。なんか偉そうになっちゃった。ともあれ。
「スイミング・プール」はそういった映画の文法。というものをひっくり返すことで、映画と、ぼくたちとのあいだの安定的で良好な幻想関係に楔を打ち、破壊します。破壊へと導きます。それが戦慄の正体です。そのときAはAでなくなり、その瞬間を起点にして、それまでのすべての時間がほどけ、フィルムを観ることを通じて構築してきた映画。というものがいとも容易く崩壊してしまうことをぼくたちは感じます。ゆらゆらと水面が揺れ、そこに映った像がちりぢりに、千々に乱れてしまうかのように。それは現実が崩壊する。と言い換えても同じことです。なぜなら、その場所が映画であれ現実であれ、AがAであることを保証するものなど本当は存在しないからで、ぼくたちはただ経験的にそう思っているに過ぎない。という事実をこの映画は、まるで鋭く尖ったナイフのように、ぼくたちに突きつけるのです。そして逆説的に、この映画はひとつの、この映画特有の新しい文法を残し、最後にぼくたちに手を振って去っていきます。すなわち、スクリーン=スイミング・プールという自同律を。ぼくたちが覗き込む長方形のスクリーンは、サラが覗き込むプールなのです。