練習風景

深夜に音楽版の「オンエアバトル」をやっていて、下手くそな音楽ってすごくいいなあと思う。言い方が悪いかもしれないし、その人たちだっていうほど下手くそなわけではないのだけれど、音楽の良い・悪いなんて上手い・下手とはぜんぜん関係ないんだよなと気づかされる。いや違うな。音楽には上手い・下手なんていう基準はたぶん存在しないのだ。いや基準は存在するのかもしれないけれど、そんなこと別におれが気にする必要なんかないのだ。というか音楽がそこにある・ないという2種類の状態がこの世界には存在し、そこに音楽があると、音楽がない状態よりも、時間になにかが詰まっている、詰まっていく、という感じがする。というか音楽がない状態なんてない、とさえいえる。ぼくは外でヘッドフォンで音楽を聴かない。だって音楽はどこにでもあるからだ。ぼくはなるべくそこにある音楽を聴きたいと思うのだ。ラース・フォントリアーの「ドグマ95」の2番目みたいな感じ。
そういえばいつだったかテレビでチェコにある音楽学校のドキュメンタリーみたいなのをやっていて、その学校は目が見えない人のための学校だったのだけれど、そういうこととはまったく関係なく、その練習風景というか、人が音楽を練習しているところ、というのがとてもいいなと思ったのの、それは延長なのかもしれない。その、完成品ではない感じが、そのときすごくいいなと思えたのです。
『リリイ・シュシュのすべて』でも合唱祭のための練習風景があってそれも良かったし、本番の合唱のシーンもとても良かった。京都に行ったときに下校途中の小学生が反対側の歩道でふたりでリコーダーを吹いていて、それもすごく良かった。でも車がびゅんびゅん通るようなガードレールのないとても細い道で笛を吹きながら歩いていて危なかった、ということも含めて良かった。女の子たちはなぜだかぼくの方を向いて笛を吹いていて余計に危なかった、ということも含めて良かった。