完璧な病室

明け方、グリの叫び声で目覚める。一瞬なにが起きたのかわからず、こっちまで叫び声を上げてしまう。またもやブロスがやって来たのだった。あんまり変な時間に来ないで欲しい。昼はまたもカップヌードル。ところで、チキンラーメンの売り上げが過去最高なのだそうだ。どうしてなのかは知らないが、チキンラーメンは小さい頃から大好きだ。ネーミングがすばらしいと思います。
小川洋子『完璧な病室』と『新潮2月号』の「海」を読んだ。『完璧な病室』はおそらくデビュー作品集。どうやらぼくの印象は間違っていなかったようで、初期の作品にはそれほどファンタジーっぽさを感じない。ところで、小川洋子はそもそも病気の弟を見守る「病室」から出発したのであり、それが「闘病記録」となるのは当たり前の話だった。それは正確な意味で闘病記録と呼べるものではないにしろ、「生の側にいる人間が死へと移行しつつある人間を観察すること」が書くことの基本的なスタンスであるということはいえるだろう。いいかえれば、小川洋子において、書くことは弔うことに等しい。だからこそ、死への不可逆性が充満しているという意味で「病室」は「完璧」な空間とされるのであり、それに抗う場所として「台所」や「食べること」という行為が嫌悪されさえするのだ。だが本来、「病室」とは回復するための場所である、ということを考えに入れるのならば、「小説」こそが「病室」なのだというアナロジーがここで得られる。死者をも癒す場所としての「小説」。「病室」において果たされなかった病の治癒が「小説」においてなされる。読みを通じてわれわれは黄泉の国へと赴き、死者の蘇りを促すのだ。それは結局、誰もがあらかじめ死を宣告されている者としてある人間を、死の恐怖から救い出すことへの試みであるともいえるだろう。芸術とはそもそもそういうものではなかったか。われわれが死んでからもなお哀しむべきことなどひとつもない。誰かが生き残り、それを覚えてくれてさえいれば、われわれはいつでもかつていた世界へと召還されるのだ。小川洋子の小説にはおそらく二種類の話がある。医者が患者を癒す話と、患者が医者を癒す話だ。