夜になるとぼくらが

ぼくらはつまり川にいたいのだ。川にいると、ぼくらはつまり川にいたいのだ、という思いが募ってくるような気がする。ぼくらは川のそばで、とてもリラックスできる。海の行き止まり具合は、寄せては返す波をともなって、積極的にぼくらを押し返そうと目論んでいると思われても仕方がないほど、時に攻撃的だ。急に近づいてきたり、遠ざかったりする気まぐれなブルドーザーみたいなもんだ、海とは。さらに視野をグローバルに押し広げてみるならば、海の、地上を飲みこむ目論見は明らかだと結論せざるを得ないのだ。ぼくらはいつか海に閉じこめられ、箱の中のショートケーキのように取り出しづらくなってしまうだろう。
あるいはこういってもいい。ぼくらは結局のところ、どこかにいたいのだ、と。どこか、自分がいてもいい場所に。いることが許されている場所に。川はもちろん無数の選択肢の内のひとつだが、驚くべき合理性を兼ね備えている。川は近くにあり、無料だ。そして広々としている。もちろん、人によって条件はまちまちであり、川よりも海の方が近い場合だってある。だからひとこと断っておくけれど、これはぼくらの場合の話だ、生まれたときから川が近くに流れているぼくらの場合の。
そう考えると土地に値段がついていることにも納得がいくような気がする。わたしは然るべき金を払った、したがってわたしはここにいてもいいのだ、というわけだ。そして表札を掲げるというわけだ。立派な家ほど立派な表札があるのは、ここは自分の場所だといいたい気持ちの表れであって、表札とは思った以上に両義的な機能を持ったものである。なぜなら、ここはわたしの場所だ、ということを他人に教えているのだから。それは目印であるというよりも、まずは抑止力であるつもりなのだろうか? 
夜になるとぼくらが家に帰るのは、そこにいてもいいことになっているからだ。そしていつかぼくらは、誰かのための場所を作らなくちゃならない。その人が心の底から安心して「ここにいてもいいんだ」と思えるような場所を。暗くなったら帰ることのできる場所を。あるいは朝になってしまったときにいち早く帰りたいと思える場所を。とりあえず、まずいちばんに寝ころびたい場所を。だから家族とは、あなたがいつでもそこにいてもいいと考えている人たちのことで、川は間違いなくぼくの家族だ。川はみんなの家族だ。
ぼくらは川にいたい。だから、バーベキューをする。本当はただ川にいたってかまわないのだ。川はぼくらになにかをしろと要求したりしない。明日までに原稿用紙で10枚、森鴎外について書け、などと命令したりしない。でもなにかのため、たとえばバーベキューのために川にいる方が、川にいるという感じがするし、川の恩恵をもっと感じられるものだ。ぼくらが川に似合うためにできることは、川の機能を存分に引き出すこと。それは女の子とつき合うのといっしょだ。だから川で冷やすビールの温さには、余程のことがなければ目をつぶるべきなのだ。誰でも完全というわけにはいかない。いくらかはまだ冷たいというだけでも感謝するべきなのだ。それにどうせ酔っぱらっているのだ、多少冷えてなくともかまわないではないか。
ぼくらは川で、川という場所は実に、つくづくバーベキューに最適の場所だなと思う。だからバーベキューをするのだな。そしてやがて川にいることすらぼくらは忘れる。陽が落ちて、ぼくらは川の流れを見失う。それでもいつだってそこに川は流れており、ぼくらになにひとつ要求せず、いつでもぼくらの訪れを待っていてくれる。